ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

エネルギーは伝染する。一流と超一流を分けるのは「エネルギーをどれだけ掛けるか」

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「エネルギー」って言葉が最近、頭の中にずっと漂っています。

 


以前とある講座で、クリエイティブ・ディレクター/CMプランナー/コピーライターの松尾卓也さんが、こんなことをおっしゃっていました。

「エネルギーをどれだけ掛けて相手と接するかで相手のパフォーマンスが変わる」

「相手にどれだけエネルギー掛けるかの違いが一流と超一流を分ける」

「人はエネルギーを掛けられるといいパフォーマンスをしたくなる」

 

講義を受ける側から講師へは、「拍手」や「聞き方」でエネルギー示すことができる。

招いたビジネスパートナーへは、リラックスできる環境を整えたり最大限のおもてなしとお気遣いをすることで、相手のパフォーマンスを高めることができる。

演技をする動物にだって演技したら「すぐ大きな声ではっきり感情を示して褒める」とそれはきっと伝わる。アメリカの動物プロダクションが日本では不可能といわれる「猫に演技させる」ことを実現していてそう思ったそう。

 

このお話がなんだか気になって、ずっと頭に引っ掛けているうちに、私のモチベーションアップやモチベーションキープと「エネルギーの大きさ」は密に関わっているんじゃないかって思ったんです。

 

 

 「合う環境」と「合わない環境」の境界線は何?

私は、「ここ私に合う環境だな」「ここ私には合わないな」って思うラインは何なのか、ずっと探しています。

 

試しに聞いてみた友達は、「やりたいことができるかどうか」って言っていました。
「自分が成長できるかどうか」「好きな人がいるかどうか」と教えてくれた友達もいます。

 

私、これ、全部経験者です。


「私、◯◯だからこの環境大切なんだよね」とか「私、◯◯だからこの環境合わないんだよね」って言ったことあります。

そうして、「これかも! ……やっぱ違った」となってしまいました。

 

 

「エネルギーを掛けてくれてるか」かも

そんな中、新たなこれかも! が「エネルギー」です。

とっても受動的な理由だなって我ながら自分を頼りなく思うんですが、もしかしたら私は、そこにいる人たちが私に対してたくさんエネルギーを掛けてくれる場所を大切に思い、そこにいる人たちがあまり私にエネルギーを掛けてくれない場所をあまり大切に思えないのかもしれません。

 

「だってそっちの方が比較的高いパフォーマンスが出る」ということを私は言語化できないまでも感じ取っていたように思います。

その場所に初めて指導に伺うときに駅までお迎えにいらしてくださるとすごく気持ちが乗るし、反対に指導にお迎えする方に対してもその方が指導内容以外のことに乱されることがないよう気を配ります。音楽の現場であれば、要らぬ音を立てないようボールペンやシャーペンを使わないということも、目立ってエネルギーを感じさせるものではありませんがそのひとつです。

 

そして、私にとって「自分が高いパフォーマンスを出せるかどうか」というのは大切な指標です。だから、「私にエネルギーを掛けてくれる人がいるところが、私にとって合う環境なんだろうな」と。

 

自分のパフォーマンスが他者に大きく左右されるなんてなんて受動的ななんだろうって思うけど、それをちゃんと言葉にして理解できたから、今度はそれを効果的に使ってみようと思います。

 

 

エネルギーもきっと伝染する

私は、「人は鏡」だと思っています。

人はどうあっても相手に影響されます。

不機嫌も笑顔も伝染します。たくさん情報開示してくれた人にはこちらも情報開示するハードルが下がるし、親切にしてくれた人には親切な対応を心掛けます。

 

人は鏡だから。エネルギーもきっと伝染すると信じて。

 

それホントに伝わってる?:その「伝えた」って実感、「ただ喋りきっただけ」かも

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「何回も言ってるのになんで分かってくれないんだろう」「私、言ったよね」「前にも伝えましたよね」というようなコミュニケーションエラーが起きたとき、つい感情的になってしまいます。

 

そうして感情的になってぶつかるのも少年・少女漫画的で好きなんですが、社会に出たらそうもいってられない場合が多い。

 

なので、場合分けして考えてみました。

 

「伝える」には4段階ある

「分かる」に段階があるように、

・頭で理解した

・意識すればそれを行える

・無意識にもそれを行える

・人に分かりやすく伝えることができる 

 

「伝える」にも段階があると思います。

1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)

2. 相手が伝えた内容を理解した(けどそれに魅力を感じておらず行動を起こさない)

3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした(けど継続するほど魅力的ではなかった)

4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた

 

そして、「4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた」ときだけが、誰に何の文句も言われず、コミュニケーションエラーも起きない「伝える」だと思います。

 

 

「分かりました」って空気を読んで取り敢えず言う人もいる

ちょっと具体化するために、こんな場合で見てみます。あえて4から1へと。

伝え手「このショートカットキーを使うと効率がいいから使ってね」

受け手「分かりました」

 

 

「4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた」

相手がそのショートカットキーを覚えて習慣的にそれを使うようになった場合。

 

「3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした(けど継続するほど魅力的ではなかった)」

伝えた直後はそのショートカットキーを使っていたが、徐々に使わなくなってしまった場合。

 

「2. 相手が伝えた内容を理解した(けどそれに魅力を感じておらず行動を起こさない)」

相手はそのショートカットキーの操作方法は理解したものの、行動を起こさなかった場合。

 

「1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)」

伝える側は伝えたと思っているものの、正確には伝わっていない場合。

 

相手はその場のノリで(もしくは空気を読んで)「分かりました」と言ったけど、実は右から左に抜けているということもあるでしょう。正直、私はプライベートではよくやってしまいます。

 

もしくは、伝え手の言い方が受け手には高度すぎるのかもしれません。伝え手は「commandプラスPで印刷できるよ」と言って伝えたと思っているけど、受け手はPC初心者で、伝え手が同時押しという意味で使った「プラス」を連続押しと理解したという場合なんかがそうでしょう。

伝え手は「伝えた」し、相手も「分かった」と言ってくれたのです。

受け手は「理解」したし、それを行動に起こしてもみたのです。

それぞれの主観では自分に否はないし、コミュニケーションエラーも感じません。でも、全然成り立っていないから支障をきたす。一番お互いにとって「言ったのに伝わらない」「伝え方が悪い」となってしまう状態かもしれません。

 

どちらにしろ、相手が理解したかどうかを確かめずに「喋った=伝えた」と捉えているということで一括りにしてみたのが、この「1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)」状態です。

 

 

こうして場合分けしてみると、 私、コミュニケーションエラーを感じたときに見当違いの対策を取ってしまっている場合もたくさんあるようです。

私はコミュニケーションエラーを感知したときに「これってこういう意味のある作業なんだよ」って語りがちです。でも、相手が「1. 理解していない」状態だったら意味のないコミュニケーションの上乗せ……。

 

 

段階が違えば、対処法も違う

こうして段階ごとに考えてみると、段階によってコミュニケーションエラーの原因も違うし、効果的な対策も違うことがおぼろげながら見えてきました。それをここで明文化してみたいと思います。

 

1. 相手にとって過不足ない情報を与えられた?

「1. とにかく喋りきった」けど相手が理解したのかすら分からないのなら、相手にとって労なく理解できる伝え方ではなかったのかもしれません。もしくは、相手の聞く体勢が整わないうちに畳み掛けて話してしまったのかもしれません。相手の立場に立って、相手が余裕を持って聞けるタイミングを伺ったり、相手にとって過不足ない情報を与えられたかを見直すべきかもしれません。

 

2. 「自分にとって試す価値あり」と思える言い方をした?

「2. 相手が伝えた内容を理解した」けど行動に変化がないのなら、相手はそれを理解しはしたけど、「自分にとって試す価値あり」とは思っていないのかもしれません。

たとえば、私が「鋼の錬金術師は、主人公の兄弟が何度打ちのめされても前に進むところが見どころで……! だから、ぜひ見てみて!」とアニメを友達に進めたとします。友達は「鋼の錬金術師は成長譚である」ということは理解しました。しかし、その友達は「成長譚を見る」ことに自分のくつろぎの時間を使いたいとは思いませんでした。だから、その友達は私の言ったことを理解はしたけど、残念ながら鋼の錬金術師は見てくれないでしょう。でも、その人が年配者が活躍するシーン好きだったとしたら、私はこう言い添えることができます。「鋼の錬金術師は、おじさん・おばさんも活躍するところがカッコイイ作品で……!」そうすると相手は「なら鋼の錬金術師を見てみよう!」と思うかもしれません。

こうして、相手が「自分にとって試す価値あり」と思える言い方に寄せていくと相手が行動を起こしてくれる可能性が高まるんじゃないかなと思います。

 

 3. 納得できる展望があると確信できてこそ人は変わろうとする

「3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした」けどそれを継続しなかったのなら、相手は行動してみたものの継続するだけの魅力は感じなかったのかもしれません。

 

……講師業をする私にはここの難しさを痛いほど感じます。その場で伝えるべきことを理解してもらい、その場で試してみていただくことまではできても、それを私がいないときにも行っていただくこと、そしてそれを半永久的に行っていただくのは本当に大変なことです。日本語の自然な歌い方にしても、自然な笑顔の練習方法にしても、相手はそれに興味があるから私を呼んだり・私のところに来たはずなのに、それでも相手に継続的な行動を起こすことは本当に難しいことです。

 

ここに対する私の成功体験は乏しく、その上そこから「自分の行いに関する法則性」を見出すこともできていません。だいたいの成功の要素が受け手側にあるから。

ただ、いろいろ試してたことを整理したくもあるのですが、すでにこの記事だいぶ長いので今回は割愛します。

 

 

 

「伝えた」ってことをただ場合分けしてみました。コミュニケーションエラーってつい感情的になりやすいので、そのときにはこの場合分けを思い出してみることにします。そうしたら少しは冷静に、その状態を良い方向に向けるために自分ができることを探せるようになるかな。

 

それホントに伝わってる?:「あなた」から私はどれだけ離れてるんだろう

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「これ、前にもお伝えしませんでしたっけ?」

 

言うのも辛ければ、言われるのも辛い言葉。この1週間これを言いたくなることが何度もありました。そして、習い事の先生に言われもしました。「伝える」って難しい。

 

 

「あなたが知らないことを今から話すね」

「伝える」って言葉は、「◯◯したよ〜」って報告の場合に使われることもあれば、「育成する」とか「指導する」って言葉の代わりに使われることもあります。

その全てに共通するものを導くと「相手が知らないけど私が知っていることを、相手に知ってもらう」ということだと思います。

 「伝える」という行為は相手と自分の情報格差を埋めるためにあるのです。

 

「相手が知らないけど私が知っていること」はさまざまです。

私が今朝見たニュースかもしれないし、私の田舎のお話かもしれません。長年極めたお菓子作りの技術かもしれないし、「ほめて!」って気持ちかもしれません。相手に対する「最近頑張ってるね!」って気持ちかもしれません。

 

世の中には些細なものから大仰なものまで「相手が知らないけど私が知っていること」がたくさんあります。そんな「あなたと私の情報格差を埋めること」が「伝える」ということなのだろうと思います。

 

 

「あなた」から私はどれだけ離れている?

「あなたと私の情報格差」は小さい場合もあれば大きい場合もあります。

 

「報告」と「共有」と「育成」

 

「あなた」を起点としてそれぞれの距離はどのくらいに感じますか? と聞かれたら、「報告」は近くて、「育成」は遠い、その間に「共有」という印象を持たれるのではないでしょうか。

 

これが、「あなたと私の情報格差」の距離感です。

この例は分かりやすいですが、言葉で言い分けられず「ニュアンス勝負」になってくるものもあります。

 

例えば

「新卒1年目の新入社員の育成を任せる」と言われたときと「中途で入ってくる社会人3年目の新人の育成を任せる」と言われたとき。

 

どちらも「育成」です。しかし、新卒の方のほうが比較的遠く、中途の方のほうが比較的近く感じるはずです。

 

さらに、同じ「新卒1年目の新入社員の育成」でも、その新入社員の持つ経験やコミュニケーションの取り方が自分と似ているかどうかで距離に差が出ます。私が社会人3年目なのか、もう5年目・10年目になっているのかでも距離はまた変わるでしょう。もちろん、育成初日か育成が始まって日が経っているのかによっても距離は変わります。

 

距離はナマモノなのです。「あなたと私の距離」はその時々にあわせた調整が必要なのです。

 

なので、相手にしっかり寄り添った「伝え方」をしたいのなら、「相手のいる地点から自分はどれだけ離れているか?」を日々意識することが大切です。

 

当たり前のように見えて、先日の私はこれを忘れていた

「あなたと私の距離」を意識せよ! なんて自分で書いていてなんて当たり前のことなんだろうと思うのですが、人は当たり前のことこそ忘れてしまうように作られています。

 

実際、私がお伝えすることについて悩んだのはこれが理由のようでした。

 

振り返れば、私がお相手のことを勝手に「このくらい知っているはず!」と確認もせずに思っていた部分があったし、「この方これは知らないんじゃないか?」という視点を持てていませんでした。

 

お相手のことをまったく考えずに、「私が伝える」ということばかりに意識をおいていたのです。「伝えるというのはあなたが知らないことを今から話すねということ」と冒頭で書きましたが、このときの私の行為は「私が知っていることを今から話すね」という押し付けがましい行為だったのです。「伝わらない!!!!!」って状況が生まれるのは然るべきことでした。

 

「お相手は今何を知っていて、そこから私はどれだけ遠くにいるのか?」を意識し始めた途端、「伝える」はスムーズに回るようになりました。

 

 

小学校1年生の担任の先生がクラスの年間目標に掲げた「当たり前のことが当たり前にできる人になろう」という標語が今になって胸に刺さります。

 

 

「忙しいの好きだよね」って言われたので精一杯の反論です。

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よく思い違いをされますが、私は忙しいのが苦手な人間です。

 

基本予定が埋まっているからか、「忙しいのが好きな人」って思われるんですけど、私は忙しいのは嫌いです。


そもそも「忙しい」っていうのは予定がどれだけ詰まっているかやどれだけのタスクを所持しているかを表す言葉ではなく、心理描写の言葉だから、「忙しいね」とか言われると相手に私の気持ちを決められているようで気持ち悪くなっちゃうんです。しかも、「忙しい」は何かを逃れるために使われることが多くて免罪符のような意味合いがこびりついていて、「忙しい」って言ってる人には距離の取り方や接し方に気をつけなきゃいけないような感覚を習慣的に覚えているからかもしれません。

 

免罪符みたいなっていうのはたとえば、母「たまには子供の送り迎えをしてよ」父「俺は忙しいんだ!(といいつつ趣味の野球観戦はしている)」とか、部下「こちらの案件についてのご判断、どうか本日中にいただけますでしょうか」上司「俺は忙しいんだ! そんな案件今日やる暇はない!(といいつつ先に帰る)」とか、大学生「今回くらいは飲み会幹事やってよ!」その友達「オレ忙しいからさ、ゴメン、頼むわ!(といいつつ別の友だちと飲みに行く)」みたいなことに象徴されるかんじ。

 

こんなふうに使われる頻度が高いから「忙しいね」って言われると「私この人に対して言い訳がましい対応しちゃってるんだな」って思うし、「忙しい」を私は文字のつくりどおり「心を亡くしている状態」って解釈してるから、気が置けない関係での冗談とか皮肉とか煽り以外では発言にためらうくらい「忙しい」って言葉を使うのを慎重に避けているんです。

 


ちょっと話は戻りますが、予定がギッシリなのは構わないんです。私にとって大切なのはひとつひとつにじっくり全力で取り組めるかどうかだけなんです。これが成されるなら予定ギッシリも全然だいじょうぶだし、これが成されないなら予定ギッシリでなくてもだいじょうぶじゃないんです。

 

予定とかタスクとか業務とか仕事みたいなものって、ただそのものと向き合って作業をしている時間と、それについてさまざまに視点を置き換えて「この作業って結局誰のためなんだろう」とか「改善や改革の余地はないかな」とか思索をする時間とで構成されていると思うんです。私は、作業というインプットあっての思索だと思うし、インプットが多いほど思索は弾むと思います。だから作業もそこそこ好きです。でもね、バランスがあって、「予定」に割り当てている時間のうちほぼすべてを作業に費やさなきゃいのは嫌なんです。それがまさに、私にとっての「忙しい」状態だから。私にとって「心を亡くす」の「心」は思索なんです。思索の時間が取れなくなった瞬間、私は死に瀕してしまいます。っていうことなんです。

 

実際「忙しいな」って感じていた先週は、ブログ書く時間とってたのに何も整わなくて書けなかったしね。でも、「あ、忙しいの抜けた」って思ったその後は整えたいことがどんどん浮かんでくる。私にとっての心の有無の象徴は思索できるかどうかなんです。

 

 

ただ、「忙しい」に対して拒絶反応を持っているわけではないことを最後に言い添えておきます。ときどき忙しい状態に陥るのは、自分のキャパを伸ばそうとか自分流のやり方を見直そうってモチベートするのに役立ってるなと思うし、「忙しい」を知っているから「忙しくない」ことを知覚し堪能することができると思うから。「忙しい」の存在は認めています。必要悪だと思います。「闇があるから光がある」みたいな。ちょっと違うか。

 

マナーを勉強したら、「お相手を思う」ってことにも方法論があった

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マナーのお教室に通っていたとき、最後に課されたレポートのテーマは「異文化理解」でした。

 

「異文化理解」とは、異なる文化を持つ方のことを考えるには自分視点ではなくその方の視点で考えようという意味のことですが、これが「お気遣い」において重要なのです。

 

 

異文化のはじまりは家族

マナーでいう「異文化理解」における異なる文化を持つ方は、海外の方だけに限りません。

生まれ育ちが東京か、関西か、田舎かということも含まれます。

団塊の世代か、ゆとり世代かということも含まれます。

 

もっと細かい区分まで含みます。

 

「異文化」は、自分と自分以外のすべての人の間に隔たっているものと捉えるのです。

 

自分と、家族も含めたすべての他人は、違う背景の上に人格を形成している。

だから、お相手のことが分かるはずがない。

だから、無条件に分かり合えるはずがない。

 

というのが「お気遣い」の出発点だと、私は思います。

 

 

お相手のことを思うってことにも方法論がある

だから、お相手のことを考える際に

 

「私だったらどうするだろう?」

「私は何をしてあげられるかな?」

 

と考えるのではなく、

 

「この方の立場だったらどうするだろう?」

「この方はどうしたいと思っているんだろう?」

 

自分ではなくお相手を主語にして考えましょうという教えがあります。

 

 

 

お相手のことを思う究極の形は……

また、お相手のことを思った配慮でさえも必ず言葉を添えます。

 

たとえば、美しい庭園が特徴のレストランにお相手をお連れするとしましょう。

プロトコール(国際儀礼)では入り口から遠い側が上席というルールがあります。

しかし、美しい庭園が見えるのは入口側の席で、このレストランではその長めを楽しんでいただくためにあえて入口側のお席を上席とする慣習があるとします。

 

 

そのときに入口側のお席を指して

「こちらのお席をどうぞ」とご案内するのは、お気遣い度2点くらいです。

※採点は私の勝手な尺度です

 

「眺めが綺麗ですのでこちらのお席へどうぞ」と理由を添えると、お気遣い度3点くらい。

 

そして、「こちらの空間では眺めが綺麗ですので、よろしければこちらのお席をどうぞ」とお相手に選択権を委ねると、お気遣い度満点です。

 

 

もしかしたら、お相手は美しい庭園には興味がなく、それよりもプロトコールを厳格に守ることに関心があるかもしれないからです。

お相手のことを分からない自分をちゃんと認めて、お相手を勝手に定義づけることはしない。お相手のことはお相手に決めていただくというのがお気遣いの究極の形であるというのが、私がマナーをお勉強して得た一番深い学びです。

 

「社会」の人たちと喋るのが苦手な私たち

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満員電車が嫌いです。

 

 

満員電車というものは苦痛に満ちています。

 

身体の距離がありえない近さであるという苦痛に加えて、コミュニケーションが成立していないという苦痛。

 

 

見知らぬ人と密着するというありえない身体の近さのために、バランスを取ろうとしてなのか「自分の殻に閉じこもる人」が多いように感じます。

 

 

 

たとえば、降りる人が少ない駅で出入り口から遠い人が降りるとき、無言でドンドン体当たりをするようにして人を掻き分けて降りていかれる人がいらっしゃいます。

 

一言、「降ります!」と言ってくれれば、モーゼの十戒のようにとはいかずとも、うっすらと道が開かれるでしょうに。

 

 

 

たとえば、降りる人が多い駅で出入り口から近い人も遠い人も、我先にと出口へ向かいます。そのためにドアのあたりはもみくちゃ。

 

電車に乗る順番待ちをするのと同じように、電車を降りる順番待ちをすれば、髪が乱れたり服や鞄の型崩れを起こすことなく済むでしょうに。

 

 

 

たとえば、雨の日の電車では、立っている方の持つ濡れた傘から垂れる雫が、その前に座っている方の靴に当たることだってあります。靴が濡れてしまうのは誰だってイヤでしょう。でも、だからといって手で押しやるというのはいかがなものでしょう。押しやられた方にイライラして反骨心が芽生えるかもしれません。

 

一言、「すみません、傘から垂れる雫が私の靴に当たっているので、よけていただけませんか?」と言葉があれば無駄な衝突が避けられるのに。

 

 

 

満員電車は「社会」。身体での意思疎通は場にそぐわないと思う

満員電車で居合わせる人たちは、「社会」の人たちであって「世間」の人たちではありません。

zerokarasaki.hatenablog.com

 

 こちらの記事で取り上げましたが、

 

「社会」とは、さまざまな人がいて、コミュニケーションに言葉を尽くす必要がある環境、

「世間」とは、コミュニティーの中で濃密に強くつながっていて言葉があまり必要でない環境

 

を指します。

そして、日本人は「世間」は得意だけれど、「社会」には抵抗感があるといわれることもあります。

 

 

自分の領域が見知らぬ人に侵される満員電車は、動物にとって過酷な環境です。

だからつい防衛本能みたいなものが働いて自分の殻に閉じこもりたくなります。

そして、他人への配慮なんて概念から忘れ去ったような行動をしがちです。

 

でも、人と人が同じ環境にいるのですからコミュニケーションはなされています。

 

満員電車の中ほどに居て、「私はこの駅で降りたい」と思ったときに誰とも接触せずにドアにたどり着くことはできません。

言葉で近くの方の協力を得たり、進行方向へ向かって突進するという行動で周りの方を動したり、何らかの形で他人との交流が行われます。

 

 

見知らぬ人とコミュニケーションを取るのに、「身体」ではなく「言葉」の方がまだ心地よくはありませんか?

 

 

もうちょっと、「社会」の人と喋るのに抵抗をなくそうよ、日本人……と、満員電車に乗るたびに思います。

 

歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと

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1年くらい前に見た、ヨルタモリというTV番組で、秋元康さんがたしか、

 

「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」

 

って語ってた。

 

 

そこで秋元さんが語ったエピソードまでは覚えていないけど、その意味はだいたいこういうことだった。

 

 

 

たとえば、ここに1本のボールペンがあるとする。

コンビニで間に合わせのために買うような数百円のボールペンではなくて、文房具屋で自分にしっくり来るものを選んで買うボールペン。

 

 

それを見て、大人は微笑んだりする。

「そういえば、卒業と就職のお祝いにとゼミの先生がボールペンをくれたっけ。課題の講評は厳しかったけど、いつもその後飲んで語り合ったな。先生元気かな。ボールペン、今は棚にしまってるんだっけ。帰ったら引っ張り出してカバンに入れよう」

 

 

それを見て、大人は切なくなったりする。

「そういえば、彼は元気かな。いつも使い古したボールペンと手帳を持っていて、メモや予定管理は絶対手書きってこだわってたけど、今もあのボールペン使ってるのかな」

 

 

こうして、一般的には特別ではない何気ない物や何気ない風景・何気ないシーンに感動できる。

なんでもないものが特別になる。

 

そんな特別が量的にも質的にも増えるのが年を取ることだと、秋元康さんが語っていた。

 

 

なんてロマンチックな世界の切り取り方だろうって、あの時も今も思います。

 

 

秋元さんは、隠れていたものを見えるようにした

 


公共広告機構 CM 『黒い絵』

 

このCMは「子供の発想力は、大人の予想を超える」というメッセージを発信する印象深いCM。

こんな風に、世の中では「子供の発想力は豊か」といわれることが多いです。

 

 

だからこそ、秋元さんの「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」ということ、年配者のほうが豊かに発想を広げることができるという切り口に、私は目を開かれる思いがしたのかもしれません。

 

 

 

人は、目に見えるもの、言葉として耳に入ってきた情報で他者を判断します。

 

子供は、多くのことを報告してくれます。

他者に認識されることをゴールとするなら、子供の発想に無駄打ちは少ないのです。

 

 

一方、大人の発想力は人の目に触れにくい。

一般的に、大人はその場を意識した振る舞いをします。

冒頭の例のように、店頭でボールペンを見てストーリーが浮かんだからといって目の前にいる店員さんを捕まえてそのストーリーについて詳細を語ったりしません。

発想は目まぐるしく働いているのに、他者に認識されることをゴールとするなら、大人の発想は大多数が無駄打ちに終わっているのです。

 

 

そんな、人に見られることなく浮かんでは消えていく儚い発想を秋元さんは美しく切り取りました。

 

「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」

 

そう語れる歳の取り方をしたい。