ゼロからさきへ

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強迫観念的に「私らしく生きよう」としてるかも:この世界の片隅に

 

 『この世界の片隅に』を見て、現代の私たちって強迫観念的に「私らしく生きよう」としてるんじゃないかなって思いました。

 

 

絵を描くことが好きなすず(主人公)が、戦争で絵を書かなくなったからといって「私は絵を書きたいんだ!」と訴えたりしない。

他の人たちも、「自分の自由な時間が取れない!」とイライラするような描写はない。

いきなりの見知らぬ人との結婚も、戸惑いはしても数カ月後には嫁ぎに行く。

 

物語上の都合で描写を省いているところもあると思うけど、多分、それだけではない。というか、それらを描写しなくても成り立つ程度の問題でしかないという点でやっぱり「私らしく生きる」ということは現代人より幾分も軽く扱われている。

もし、私たちだったらもっと「私らしく生きる」ことが侵害される描写が際立ったはずだ。 

 

それは、私たちが「私らしく生きる」ことをとても重く感じていることの裏返しだと思います。

 

「私らしく生きる」という難題

どこで引っ掛けたのか忘れてしまったけど、人間は経済が豊かになるほど読書の時間が増えるというデータが発表されているらしい。余暇の時間は確実に増えていると。

現代人は口々に「忙しい」と言うけれど、一次的な意味での「生きる」時間は減った。日本では食べ物の心配をする人よりお金の心配をする人の方が多い。絶対値的に考えればその時点で十分豊かで、十分「空いた時間」があるはずだ。

 

しかし、そこに「私らしく生きる」という新しい概念が滑り込んできた。

 

それがビックリするくらい難題で、物質的に豊かになったのに、その分「精神的にも豊かになった」とはいえない状態が現代なんだと思います。

 

そして、「精神的にさほど豊かになっていない」ならまだいいんだけど、個人を見ると「精神的に余裕がなくなった」という人もいる。生活に困っているわけではないけど自己実現できなくて辛くなってしまったり。

 

進歩したから新しい概念と出会った。でも、それが人を苦しめてしまうというという状況が、小さいところでは起こっています。

 

それは、人だけがタナトスを持っているということと似ている気がします。

 

進歩したから、選択肢に「死」が現れた人間

生き物には、「快楽を求め、不快を避ける」という快楽原則があるそうです。

この快楽原則は「だから、がんばって生きる方法を模索しよう!」という行動を導きます。多くの動物がこのワンパターン。

しかし、人間にだけは第二の道があるそうです。

 

それは、「だから、苦痛を回避するために死のう」。

 

人だけが「死」という概念を認識できるから生まれた第二の道。こっちがタナトスです。「死」までは行かずとも、行動が享楽的になったり刹那的になったり非生産的になったりします。

 

進歩したから見える景色が変わって選択肢が増えた。でも、その選択肢は「生きる」ことの妨げになってしまう……。

 

 

事あるごとに「忙しい」と口にする人を見ると、「人間らしく生きる」というのもこういった要素を少し持っているのかもしれないと時折思います。

 

人間が「私らしく生きる」ことにエネルギーを掛ける時代に突入してる

とはいえ、「私らしく生きる」という概念は、生まれはしたけどまだカタチになってはいない状態です。なにが「人間らしく生きる」ということなのか、どうすれば「人間らしく生きる」ことができるのか、経験則を語る人はいても本質的な答えは出ていないように思います。

これからさらに人間は「生活」から開放され、どんどんこの難題にエネルギーを掛けていくんでしょうね。

 

 

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毒されても「ほのぼの日常」はゼロにはならない:この世界の片隅に

戦争という日常

 

映画『この世界の片隅に』は「ほのぼの日常」ではじまります。
古き良き時代などと形容されることもありますが、形式が色濃い日常。

 

子どもは家事や仕事の手伝いをするし

お兄ちゃんは妹たちに偉ぶるし

お嫁に行くということは知らない土地に放り出されること

 

私にしたらすごく不自由なことに見えるのに、登場人物はあっさりと行う。

お嫁入りの儀式が終われば家族はあっさりと帰り、それをすず(主人公)はあっさりと見送る。帰省から帰郷する現代の大学生の方がよっぽど別れを惜しんでいるんじゃなかろうか。

そして、すずはその夜から新しい家族の生活を支える女となり、お釜を磨く。

 

 

中盤、いつのまにか戦争が始まった。食料が配給制になったり、空襲警報が鳴ったり、空襲に備えるための壕を掘ったりする。

「ほのぼの日常」は「戦争のある日常」へ移りゆく。


不謹慎かもしれないけど、それは「ほのぼの日常」の延長線上だった。

急に、ある一点で一変するのではない。

家族が戦死したって、原爆が落ちたって日常は日常。

 

 

この世界の片隅に』に対して、「戦時中に恋なんて、歯を見せて笑うなんて不謹慎だ」という人がいるらしい。

多分、その人は戦争を「特別」だと捉えてる。

 


でも、戦争は長い。第二次世界大戦はあまりに長かった。

戦地に放り込まれた人じゃない。TVによって生々しく戦地の情報が送られて追体験できるわけでもない。空襲があるとはいえ戦場にはいない人たちが特別扱いできる長さじゃない。戦争は「つねひごろ」だ、日常だ。

 

 


戦争という特別期間があることより、日常が徐々に戦争に変わってしまう方が、私は怖いと思う。

気づかないうちに徐々に毒にならされて、本来の致死量を超えても気付かない。自分が変わってしまうことに気付けない。

 

気付けないことは声を上げられないことだ。本来なら望んでいない世の中の流れを進めてしまうということだ。

 

いっぱいいっぱいになると泣いちゃったりするのって花粉症と一緒なのかな

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私は花粉症を恐れています。

 

今、花粉症ではない人も、いつかは花粉症になるかもしれないという。

人それぞれ花粉の入れ物を持っていて、それがいっぱいになると花粉症発症らしい。

その入れ物がペットボトルの蓋くらいの人もいれば、バケツくらい大きい人もいて、ある日突然いっぱいになるらしい。そしたら、それまではどんなに大量の花粉の中にいてもへっちゃらだったのが、少量の花粉にでさえ反応してしまうようになるのだという。

 

私は、まだ花粉症を発症していません。

20半ばにしてまだということは、私の花粉症入れは最低でも丼くらいの容量はあるのかな。

 

 


私は、もう一つ似た仕組みの入れ物を持っているみたいです。

 

それは、感情の入れ物。

 

花粉の入れ物と同じように、満たされるまでは大丈夫なくせに、満たされてしまったらちょっとの刺激で溢れてしまう。

 

ただ、花粉の入れ物とは違って可逆性がある。

花粉の入れ物は一度注がれたら取り出す術がないらしいけど、感情の入れ物は取り出す術がある。

 

自然に蒸発していくし、入れ物を温めて積極的に蒸発させることもできる。入れ物を思いっきり揺らしたり傾けたりして嵩を減らすこともできる。

 

ただ、こうした「取り出し方」の熟練具合はさまざま

 

嵩が50%くらいの余裕があるうちに加熱して嵩を減らす人もいれば、90%くらいのギリギリで傾けて嵩を減らす人、はたまた100%を超えてから揺さぶって嵩を減らす人もいる。

 

花粉の入れ物からは個性は見えないけど、感情の入れ物の扱い方からは個性が見えてきます。

 

髪を洗う。その主人公はシャンプー

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髪を洗う。

その行動にお湯とシャンプーが関わることは、現代人なら誰でも類推できる普通のことです。

「シャンプーをする」って言い替えても伝わるくらい普通のこと。


でも、それを普通じゃないって捉えてみたくなりました。

 


だって、シャンプーなるものが一般に普及したのってたった50年前のお話。

 

それ以前に比べ私たちは清潔になりました。きれいになりました。

生活から匂いはなくなり、土埃を廃し、虫や菌から遠ざかりました。

 

でも、それって健康?

 

 


きれいと美しいは違う。

 

渡辺和子さんは、『面倒だから、しよう』で

「きれい」は、お金を必要とします。「美しさ」に必要なのは、心の輝きなのです。

とおっしゃいました。

 

私は、「きれい」より「美しい」が欲しい。

 


髪を洗うとき、髪を濡らす→シャンプーを泡立てる→泡を髪に付け揉み込む→髪の全体の泡立ちを確かめる→手の平に十分泡を感じたら泡を流す→泡を流しきったらシャンプー終わり。この流れです。

 

主役は常に泡。

私は、髪のことを考えているようで髪のことを見ていません。

髪は放って常に泡の状態を見ている。

 

これって本質を忘れてる。

それって美しくない。

 

 

「薬も過ぎれば毒となる」

シャンプーの洗い残しは肌荒れの原因となる。

健康が害される。

 

 

髪を洗うことの主役を髪や肌に返してあげたい。

そんなことを思う夜中のシャンプーでした。

 

 

冬を何だと思ってるの?冬って寒くて当たり前だよ

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日露戦争当時の日本人兵士たちは、今では考えられないほどの軽装で戦い抜いたそうです。

 

 

また今は立派でエアコンまで装備されている住宅に住む私たちですが、こんなに室温をコントロールできるようになったのはたった半世紀前のことです。

エアコン普及率が5、6割に達したのは40年前のことなのです。

 

そしてなんとなく、私の想像ではエアコンのない時代の人たちが毎日「寒い」「寒い」と口にしていたようには思えません。

 

 

人の脳は1日に数千もの考え事をしている

その中で、重要度の高そうなものだけが意識の表層に登る

 

そんな話を聞いたことがあります。


きっと、「寒い」と気付いたとしても、それに為す術がなければ「受容する」方向にいき、頻繁に意識の表層に登場することはないのではないでしょうか。

 


しかし、今はたくさんの選択肢があります。


寒い。
だから、今日は家から出るのを辞めておこうか。
だから、エアコンで室温が整えられた家にずっといようか。
だから、カイロを持って出ようか。
だから、ヒートテックを着ようか。
だから、自販機であったかいものを買おうか。

 

選択肢が多くあるから「寒い」ということを、判断すべきものとして意識の表層に上げてしまう。

それが、もう「過敏」の域だと思うのです。

 

 

私たちは、確実に50年前の方たちより暖かで快適な生活をしています。


それなのに、「寒い」って毎日何度も嫌がることは、もしかしたら健康的なことではないのかもしれない。

「冬が寒い」ってことを忘れて、過ごしやすい快適な気候を思い描いているから、毎日「寒い」って思うのかもしれない。

 

 

そう思って、理想像を「冬は寒いのが普通」って置き直したら、冬は寒くなくなりました。

 

自室でエアコンを付けることも少なくなりました。

私には、ヒートテックもあったかいコートもあるもの。それで十分。

 

恋バナ「憧れは理解から最も遠い感情」

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友達:

私さ、尊敬できる人じゃないとダメなんだよね

 

わたし:

分かる! 「憧れって理解から最も遠い感情」っていうじゃん!

尊敬ってそういうことなんだよね!

 

友達:

え、それ知らないー! でも、分かる! 遠いから付き合えるんだよね

 

わたし:

でしょ!? 理解しきれないって分かってるからこそ、相手とうまく距離を取りやすくなるんだよね!

 

先日の友達との恋バナ。

 

 

ーー「尊敬できる人が好き」

 

好きなタイプを聞かれたときの常套句。

でも、なぜ尊敬できる人が好きなのかは人によって違うし、尊敬できる人は具体的にどんな人なのかも人によって違うとってもあやふやな言葉。

 

なのに、その友達と「なぜ尊敬できる人が好きなのか」が一致して嬉しかった。

 

相手のことを「理解できている」ということを前提にしていると、相手との少しの差に悲しくなったり苦しくなったりする。

でも、相手のことを「理解できないところがある人」と思っていると、相手との差も楽しめる。

 

「憧れは理解から最も遠い感情」。

だからこそ、その人との関係をうまく続けるスパイスになる。

 

 

 

そんなことを友達と語って分かれた帰り道。

 

「そいえば、友達知らないって言ってたけど、憧れは理解から最も遠い感情って、私どこで知った言葉なんだろう……」

 

ぐぐってみたら、『BLEACH(ブリーチ)』でした。。。

matome.naver.jp

 

意識高い系と意識高いの境目ってどこにあるの?

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意識高い」って言葉は、褒め言葉にもけなし言葉にもなる。

 

 

言葉の意味がポジティブからネガティブへ広がったり、狭い意味から広い意味に広がったりするのは、言語の性みたいなもの。

 

「ありがとう」だって感謝を伝えることもあれば嫌味を伝えることがあるし、「いつもありがとう」なんて挨拶代わりに使われることもある。

 

そのときの話の流れとか、そのときの空気とか、表情とか、声の感じとか、そういったものによって、言葉の伝える意味は変化する。

 


ただ、「意識高い」は「ありがとう」と比べれば新しい言葉だから、その言葉が伝える意味のバリエーションは狭い。

褒め言葉かけなし言葉に大別できる。つまり、「あなたのことほんとうに凄いと思う」「凄そうなことやってるけど、別に共感できない」のどちらか。

 

この後者は裏では「意識高い系」って呼ばれるものだけど、表ではちょっとずつ相手の気持ちいい言葉に言い換える日本人の性によって、「意識高い系」は「意識高い」に変身する。

 

 

意識高い」と「意識高い系」の境目

そんな、「意識高い」と「意識高い系」の境目が気になっている。

他者のエピソードを聞いたり、FBを見たりした時に、「意識高い!」って思うときと「意識高い系だ―」って思うときがあるのです。

 


たとえば、「毎日名言を紹介する」っていうこと。

括ってしまえばそう言える行動も、TPOによって私の捉え方が変わる。

 

ネットや本から借りてきた名言をそのまま載せるだけなら、それは「意識高い系」。

今日の名言:「継続は力なり」

 

でも、名言にその人なりの言葉がくっついていたら、それは「意識高い」に近づく。

「継続は力なり」っていう言葉の重みを今になって感じる。どんなにいい発想があったとしてもそれを実行して形にしないと誰にも気づいてもらえない。そして、大きなことをしたいときほど形になるまで時間が掛かる。その途中で折れてしまう可能性は桁外れに大きくなる。でも、形にするまで頑張れないと、他者から見たら何もやってないのと一緒。今年、結果にこだわりたい私は「継続は力なり」を意識しようと思う。

 

そして、その言葉が多くの人の共感を呼ぶのなら、それは完全に「意識高い系」から抜けて、「意識高い」をも抜いて、「凄い人」ってもっとシンプルに表現されるようになる。

 

 

たとえば、「自分磨きにお金を掛ける」こと。

これも状況によりさまざまだと思う。

 

お金を掛ける対象を次から次にファッションのように変えるなら「意識高い系」だと思う。その対象がエステでも健康食品でも習い事でも。

 

反対に、継続して取り組んでいたり、行っていることに一貫性があるように見えると「意識高い」に近づく。

 

さらに、それが仕事につながったり社会に貢献できることだったりして、投資した分、何かが返ってくる様子だと、それはもっと「意識高い」に近づく。ただ、その「何か」は、楽しさとか充実感とか自分しか測定できないものではなくて、客観的に測定できるものであった方が、理解したり共感したりしやすい。

 

 

 

こうして、ちょっぴりザクッと考えてみただけだけど、「意識高い」か「意識高い系」かの境目は行動というより「取り組み方」の方にあるみたい。そして、共感や憧れといったポジティブな感情が生まれたときに「意識高い」って思えるみたい。