ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

きっと誰もが子供の頃、「大人ってどんなだろう?」と自分の未来を想像した。

 

きっと誰もが子供の頃、「大人ってどんなだろう?」と自分の未来を想像した。

 

私は、結婚して家庭があって、部屋には壁一面に本があって、朝食を優雅に食べて、シンプルなクローゼットから服を選んで、車か徒歩で通勤して、テキパキ働いて、夜はゆったり夕食を食べながら長い夜を楽しむーーそんな「大人」を想像してた。

 

今の私はこれには1つもあてはまらない。

白馬の王子様は現れなかったという意味で世の中は甘くなかったし、落ち着いているわけにはいかないという意味で世の中は面白すぎる。他にもさまざまな理由があって、今の私は幼い頃に描いた未来像には当てはまらない。

 

 

生き続けていれば誰もが大人になる。

そして、大人になっても人は、子供の頃と変わらず自分の未来を想像する。

 

ただそれは、「おじちゃん・おばちゃんってどんなだろう?」ではない。「◯年後はどんな生活をしてるんだろう?」だ。


「大人ってどんなだろう?」には、未来の自分は未知というニュアンスがあるけど、「◯年後はどんな生活をしてるんだろう?」は今を延長する考え方だ。

 

未来を考えるための材料が多くなったから、未来を想像するために創造心はいらなくなっている。

大人になるって、たぶんそういうこと。

未知が少なくなるってこと。

経験則から型を導き出して、それにはめて発想するってこと。

 

幼い頃の「大人ってどんなだろう?」より、高確率で的中する確実な考え方。安定できるし、安心できる。

 

 

大人になるって、そういうこと?

 

1,000を1にする大胆な引算。SAOはモーツァルトの凄さを持っている

 

先日、映画『ソードアート・オンライン オーディナル・スケール』を視聴しました。

TV版から追いかけていてたまに見返したりもするSAO。その久しぶりの新ストーリーである劇場版を見て、私はボキャ貧に陥るくらい興奮しました。

 

その興奮はいろんなところに宿ってるんだけど、一番鋭いのは「SAOが引算で作られている」ということ。

 

ものづくりのお約束

私はものづくりをする人間です。音楽だったり文章だったり講座だったり、作るものは違うけど、「コンテンツを作る」という共通点があるからすべて同じものと捉えています。そして、来る日も来る日も仕事としてものづくりをする私には、お約束の作り方があります。

 

1. 広げる

2. 一番伝えたいことを決める

3. 文脈を組み立てる

 

たとえば、このブログを書くにあたって、まずはSAOの感想を雑多に書き出します。これが「1. 広げる」。その後、伝えたいことを一つ選ぶ。この記事だったら「SAOって引算がすごいんだよ!」ってメッセージ。続いて、文脈を仕立てる。「引算がすごい!」に説得力を持たせるにはどんな情報をどんな順番に置くべきかを考える。

工程を行き来したりするけど、だいたいこの型でものづくりをすることが多いです。

 

足し算の世界は、一緒に生きてる気分になる

私なりのこの工程が、正しいのか正しくないのか、必勝パターンかそうでないかは分かりません。この工程を満たしてるかどうかは、好きな作品かどうかということを分けるわけでもありません。

 

この工程の「1. 広げる」の要素が強い作品も好きだ。

冒険や成長を時系列で積み上げる。敵を倒すところは全て見せるし、トーナメント戦を丁寧に一つづつ描写する。メッセージの純度を高めるためというより、物語のために新たな敵が出現したり新たなステージが用意されたりする。

 

犬夜叉』『テニスの王子様』『ONE PIECE』『シャーマンキング』『HUNTER×HUNTER』とかに代表されるような足し算の物語も好きだ。

 

一緒に生きている気になる。

 

引算の世界は、知人の物語を聞いている気分になる

一方、SAOは他人の人生を垣間見ているような気分になる。彼らは私に全てを見せてくれるわけではない。部分部分を語る。それはどこか、知人の物語に接しているような気になる。

 

一緒に生きてる気になる『犬夜叉』などの作品との違いが、「引算」が機能しているかどうかにあると思う。

 

「引算」とは、さっきのものづくりの工程図でいう「2. 一番伝えたいことを決める」の部分。

 

1. 広げる→足し算・積み上げ

2. 一番伝えたいことを決める→引算・要らないものを切り捨てる

3. 文脈を組み立てる→必要なものを添える

 

私は、SAOのこの「引算」の部分に惚れた。

彼らは、私の知らない経験をたくさん持っている。そのことにハッとする。そのことが私の興味を掻き立てる。

 

 1,000を1にする凄さ

たとえば、物語を書くのに「10の情報が必要」だとしよう。

多くのものを作る人は10用意して10を書く。そして、自分の想定より物語が長くなったらまた10ひねり出す。

 

しかし、SAOは、10を書くのに1,000を用意して、そこから10を選ぶような作り方をしている。

その選び方も、まず1を選んで、その1を強めるための9を添えるというような作り方。

一度、1,000を1にしている。それがSAOの強さだと思う。

 

モーツァルトの凄さに似た贅沢さ

モーツァルトの魅力は、1つの曲に魅力的な材料を惜しみなく使うところだといわれている。ある日調子が良くて3つの魅力的なメロディーを思いついたとして、普通の人はそれぞれを別の曲に仕立てる。しかし、モーツァルトは1つの曲で全部使ってしまう。

 

SAOはこれに似た贅沢さを持っている。1,000準備して、普通ならそこから100の物語を創ろうとするところ、SAOは1つの物語に仕立て上げた。

 

びっくりする贅沢さ。その分、純度が高く鋭い作品になっている。

 

それは、特にアインクラッド編で顕著だ。100層のゲームを用意し、ボス戦を描いたのは3戦だけ。2年ほどの物語をアニメでは14話で終わらせる。必要なところだけを描いたき、引き伸ばしなどない。繰り返すが、SAOの強さはこの純度にある。

 

 

そんなことを再確認する劇場版だった。

 

 

シンプル化したい欲の強すぎる私と、複雑を愛でる感覚型天才との埋まらないズレ

 

身近にすごい人がいる。

好奇心の強い私には幸せな環境だ。

 

でも、すごい人が近すぎる距離にいると、怯えてしまうことがある。

 

「論理型」に経験値全振りしちゃった私

人には天才型と努力型、もしくは感性型と論理型と呼ばれるような2つのタイプがある。

もちろん、性別でさえきれいに2つに分けることができないように、完成型か論理型かも明快に分けられるものではない。でも、大まかに大別することはできる。

 

それに当てはめるなら、私は極端に論理型だ。

論理の物事をシンプルにするところが好きで、それにエネルギーを割いて生きてきた。

 

たとえば、「音楽は言葉で割り切れるものではない」といわれるけど、私は音楽を言い切る試みを続けている。言ってみて、違えばまた新しい定義を探せばいい。そうして音楽に関してシンプルに共有できるものを増やして、音楽をプロのものからみんなのものにしたい。そうすればプロは自動的にもっと高みを開拓することになる。そうなった後の世界で音楽をしてみたい。

 

そんな夢を見つめているから、私は努めて論理型になろうとし、論理型度を高め、極端な論理型になった。

 

複雑をそのまま愛でる感覚型と、シンプル化を試みる論理型

「感覚型」と「論理型」の違いは、経験を積み重ねるときに言語の力をどれだけ頼るかによる。

 

たとえば、「気合を入れて歌ったらいい歌が歌えた」ということにはいろんな情報が付属する。

身体のポジションや、どこをどれだけ緊張させるかや、何をイメージしたかなど。「気合を入れて歌った」と「いい歌が歌えた」はいろんな要素につながれている。

 

その雑多な情報をそのまま受け取るのが「感覚型」。

雑多な情報を言葉に置き換えるなどシンプルにしてみようとするのが「論理型」。

 

私はそう大別しています。

 

点で語ると感覚型に見えて、線で語ると論理型に見える

一方、「感覚型」に見える人と「論理型」に見える人は点で語るか線で語るかによる。

 

「私、音量をキープするように歌ったんだよ」と「今」だけを語ると感覚型に見える。

「私、今、音量をキープするように歌った。私も昔は音量キープできなかったんだけど、録音した波形を視て練習して、音量キープできるようになったの」と「過程」をあわせて語ると論理型に見える。

 

 

世の中は感覚型の方が多いような

考え方は「論理型」でも、人に伝えるとき「感覚型」に見える伝え方をする人は、他者から見れば「感覚型」に見える。

とすると、潜在的に感覚型と論理型が1対1だとしても、私の見る世の中は「感覚型」の方が多いってことになる。

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シンプル化したい欲の強すぎる私と感覚型天才の埋まらないズレ

ここで強引に、冒頭の「すごい人が近すぎる距離にいると怯えてしまうことがある」ということに戻るのだが、私は感覚型に見えるすごい人に対して埋まらないズレを感じることがある。

 

感覚型でも普通の人なら、彼らが「点」しか語らなくてもシンプル化にチャレンジすることができる。

「キラキラってイメージで歌ったらいい感じに歌えたの!」と言われたら、「キラキラってイメージを持ったことによって、口の中の空間が平べったくなったり、息のスピードが速くなったりしたからなのかな」と間を推測することができる。

 

でも、すごい人のシンプル化する試みは難易度が高すぎる。

私の理解、私の想定を超えるから、私は「この人すごい!」と思うのだから。

 

 

私は知りたいって欲求が強い人間だ。知的好奇心に突き動かされるようにして生きている。だから、「論理型のすごい人」とは相性がいい一方、「感覚型のすごい人」にはフラストレーションが溜まってしまう。さながら、人参をぶら下げられた馬のように。

 

今度こそ「夢は、目標になったら叶う」について

 

さっきの記事で、「夢は、目標になったら叶う」って言葉について書きたかったのに、目標と夢について書いたところで終わっちゃいました。

なので、さっきの記事の続き。

 

実現可能性が低いからこそ夢

「夢」は、今の私から距離が離れているからこそ夢なんだと思います。

 

たとえば

「お腹いっぱいご飯を食べるのが夢」byダチョウ倶楽部 上島竜兵

 

「お腹いっぱいご飯を食べるのが夢」byタイのストリートチルドレン

 

同じセリフでも上島さんだと夢というには大げさに感じ、ストリートチルドレンだと切実に感じます。

夢には、実現するのが不可能と言い切れないまでにしても難易度高そうというニュアンスが含まれているのです。

 

「夢は叶わない」

そんなことを考えると、「夢は叶う」というより「夢は叶わない」の方が真実性を帯びているように感じます。

今の自分ができないことだからこそ夢だからです。

 

でも、人は近づこうとします。
自分の一歩先の「目標」をいくつも積み重ねて、ちょっとずつ夢に迫ります。
夢と違って実現可能性が高い目標なら一つづつ達成することができます。


そうしていくつもの目標をクリアするとその分、夢に近づきます。

夢の実現可能性はドンドン高まり、上手くいけば「夢が叶う」ことになります。

 

 

しかし、実現可能性が高くなった夢は、果たして夢なのでしょうか。

どう定義するかによるけれど、過去を切り捨てて考えるとすれば、夢が一歩先という距離にまで近づいた瞬間、夢は目標に転じてしまうように思います。

 

だから、夢だったものは叶うけど、「夢は叶わない」。

 

「夢は、目標になったら叶う」

「夢は叶わない」っていう言葉だけ伝えると厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、今私には「夢は叶わない」ということがすごくポジティブに感じられます。

人は「こうした方がいいよ」いうことだけではなく、「こうしない方がいいよ」ということからも学べるから。

 

そして、「夢は、目標になったら叶う」という言葉を素敵だなと思うのです。

先達者からの最高のエールだと思います。

 

「夢を持てば輝ける」。そういわれて人は苦しくなる

 

何の番組で誰が言った言葉か忘れたけど、昔テレビで

「夢は、目標になったら叶う」

って言葉を耳にしました。

 

数年前の当時はなんとなく「いい言葉」と思っただけだったけど、今は私の人生訓になりました。自分のやりたいことについて迷う時期を抜けたら、この言葉の深いところに気づきました。

 

「夢」は今の私との距離が離れているもの

夢には、将来叶えたい夢もあれば、叶わないことを知っているけど想像して楽しむ夢もあります。壮大な夢もあれば、日常的な夢もあります。

 

私は、昔から夢見がちな人間です。

テストで100点取りたいだの、音楽のテストで1位になりたいだの、毎日本を読んでブログを書きたいだの、毎朝6時に起きたいだの、歌がうまくなりたいだの、合唱団を作ってコンクールで1位を取りたいだの、アンサンブルグループを結成してプロになりたいだの、幸せになりたいだの……夢らしい夢から願望のようなものまでいろいろあります。

 

目指した夢も、目指さなかった夢もあります。

そうして目指すことに決めた夢は叶うこともあったけど、叶わないことの方が多かったです。

 

夢があるだけじゃ人は輝けない

よく、夢があれば人は輝くって言う。

 

でも、たぶんそれは違う。

私は、物心ついてから今まで、何かしらの夢を見続けています。でも人生輝きに満ちていたわけではありません。

家族や友人を見てもそう。夢があるからといっていつも輝いていたりいつも夢に向かってあるき続けられるわけではないようです。

 

場合によっては遠すぎる距離に疲れてしまったり、頑張るわりに変化が実感できなくて苦しくなったりすることもあると思います。

 

輝いてる人は目標がある

じゃあ、これがあれば絶対に輝くことができるというものがあるとしたら何なんでしょう。

 

その答えになりそうなものが、「目標」だと思います。

それを掲げたら試行錯誤が捗るような目標。今の自分のちょっと先くらいの距離で、慣れたり手段を工夫したりちょっと環境を変えたりしたら達成できそうなもの。

 

輝きの正体はこの一歩前に進むための試行錯誤だと思います。

 

ちなみに、ブラック企業のように達成不能なほど高い目標は、今の自分ができることと遠いという意味で、目標ではなく夢です。掲げる夢があるかどうかではなく、私にとって一歩先の「こうなりたい」があったときに、輝いてるなーと思います。

 

強く輝いている人は、夢も目標もどっちも持ってる

世の中にいる強く輝く人はたいてい夢を持っています。それを見て、「夢を持ってる人はキラキラしてる」と思っちゃうんですが、その人達は必ず適切な「目標」も持っていると思います。そういう手段は見えにくいだけで。

夢はどちらかというと「輝きの強さ」に関わるんだと思います。

 

「輝くかどうかは目標があるかどうか。輝きの強さは夢の強度」

 

そんな気がしています。

 

強迫観念的に「私らしく生きよう」としてるかも:この世界の片隅に

 

 『この世界の片隅に』を見て、現代の私たちって強迫観念的に「私らしく生きよう」としてるんじゃないかなって思いました。

 

 

絵を描くことが好きなすず(主人公)が、戦争で絵を書かなくなったからといって「私は絵を書きたいんだ!」と訴えたりしない。

他の人たちも、「自分の自由な時間が取れない!」とイライラするような描写はない。

いきなりの見知らぬ人との結婚も、戸惑いはしても数カ月後には嫁ぎに行く。

 

物語上の都合で描写を省いているところもあると思うけど、多分、それだけではない。というか、それらを描写しなくても成り立つ程度の問題でしかないという点でやっぱり「私らしく生きる」ということは現代人より幾分も軽く扱われている。

もし、私たちだったらもっと「私らしく生きる」ことが侵害される描写が際立ったはずだ。 

 

それは、私たちが「私らしく生きる」ことをとても重く感じていることの裏返しだと思います。

 

「私らしく生きる」という難題

どこで引っ掛けたのか忘れてしまったけど、人間は経済が豊かになるほど読書の時間が増えるというデータが発表されているらしい。余暇の時間は確実に増えていると。

現代人は口々に「忙しい」と言うけれど、一次的な意味での「生きる」時間は減った。日本では食べ物の心配をする人よりお金の心配をする人の方が多い。絶対値的に考えればその時点で十分豊かで、十分「空いた時間」があるはずだ。

 

しかし、そこに「私らしく生きる」という新しい概念が滑り込んできた。

 

それがビックリするくらい難題で、物質的に豊かになったのに、その分「精神的にも豊かになった」とはいえない状態が現代なんだと思います。

 

そして、「精神的にさほど豊かになっていない」ならまだいいんだけど、個人を見ると「精神的に余裕がなくなった」という人もいる。生活に困っているわけではないけど自己実現できなくて辛くなってしまったり。

 

進歩したから新しい概念と出会った。でも、それが人を苦しめてしまうというという状況が、小さいところでは起こっています。

 

それは、人だけがタナトスを持っているということと似ている気がします。

 

進歩したから、選択肢に「死」が現れた人間

生き物には、「快楽を求め、不快を避ける」という快楽原則があるそうです。

この快楽原則は「だから、がんばって生きる方法を模索しよう!」という行動を導きます。多くの動物がこのワンパターン。

しかし、人間にだけは第二の道があるそうです。

 

それは、「だから、苦痛を回避するために死のう」。

 

人だけが「死」という概念を認識できるから生まれた第二の道。こっちがタナトスです。「死」までは行かずとも、行動が享楽的になったり刹那的になったり非生産的になったりします。

 

進歩したから見える景色が変わって選択肢が増えた。でも、その選択肢は「生きる」ことの妨げになってしまう……。

 

 

事あるごとに「忙しい」と口にする人を見ると、「人間らしく生きる」というのもこういった要素を少し持っているのかもしれないと時折思います。

 

人間が「私らしく生きる」ことにエネルギーを掛ける時代に突入してる

とはいえ、「私らしく生きる」という概念は、生まれはしたけどまだカタチになってはいない状態です。なにが「人間らしく生きる」ということなのか、どうすれば「人間らしく生きる」ことができるのか、経験則を語る人はいても本質的な答えは出ていないように思います。

これからさらに人間は「生活」から開放され、どんどんこの難題にエネルギーを掛けていくんでしょうね。

 

 

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zerokarasaki.hatenablog.com

 

 

毒されても「ほのぼの日常」はゼロにはならない:この世界の片隅に

戦争という日常

 

映画『この世界の片隅に』は「ほのぼの日常」ではじまります。
古き良き時代などと形容されることもありますが、形式が色濃い日常。

 

子どもは家事や仕事の手伝いをするし

お兄ちゃんは妹たちに偉ぶるし

お嫁に行くということは知らない土地に放り出されること

 

私にしたらすごく不自由なことに見えるのに、登場人物はあっさりと行う。

お嫁入りの儀式が終われば家族はあっさりと帰り、それをすず(主人公)はあっさりと見送る。帰省から帰郷する現代の大学生の方がよっぽど別れを惜しんでいるんじゃなかろうか。

そして、すずはその夜から新しい家族の生活を支える女となり、お釜を磨く。

 

 

中盤、いつのまにか戦争が始まった。食料が配給制になったり、空襲警報が鳴ったり、空襲に備えるための壕を掘ったりする。

「ほのぼの日常」は「戦争のある日常」へ移りゆく。


不謹慎かもしれないけど、それは「ほのぼの日常」の延長線上だった。

急に、ある一点で一変するのではない。

家族が戦死したって、原爆が落ちたって日常は日常。

 

 

この世界の片隅に』に対して、「戦時中に恋なんて、歯を見せて笑うなんて不謹慎だ」という人がいるらしい。

多分、その人は戦争を「特別」だと捉えてる。

 


でも、戦争は長い。第二次世界大戦はあまりに長かった。

戦地に放り込まれた人じゃない。TVによって生々しく戦地の情報が送られて追体験できるわけでもない。空襲があるとはいえ戦場にはいない人たちが特別扱いできる長さじゃない。戦争は「つねひごろ」だ、日常だ。

 

 


戦争という特別期間があることより、日常が徐々に戦争に変わってしまう方が、私は怖いと思う。

気づかないうちに徐々に毒にならされて、本来の致死量を超えても気付かない。自分が変わってしまうことに気付けない。

 

気付けないことは声を上げられないことだ。本来なら望んでいない世の中の流れを進めてしまうということだ。