本の虫が忘れられない本:『獣の奏者/上橋菜穂子』「正しさ」は免罪符じゃなかった
「本の虫って、年間100冊以上読む人のことなんだって」
数年前、電車で近くの人が口にしてた言葉がたまたま耳に入りました。(たしか)
100冊……? 私いい線いってるかも!
と、読書記録をつけているサイトをチェックしてみたら……あ、去年140冊読んでるわ。
それ以来、毎年、私は本の虫です。
そんな本の虫が、読了後しばらくたっても忘れられない本について綴ろうと思います。
児童文学は、ストーリーよりも心の成長
好きな本のジャンルは? ときかれたら「児童文学」と応えるほどに児童文学が好きです。
読書量はそう多くはないのですが、たくさんの心に溶け込む言葉との出会いがありました。
児童文学は他の小説と比べ、ストーリーよりも心の成長に重きが置かれているように思います。
それも派手な成長というより、ちょっとした変化を描写していく丁寧さを感じます。
エンタメによった物語では「意外性」を第三者的に楽しむのに対して、児童文学では「納得感」をもって当事者的に楽しむというのでしょうか。
たとえば、新世紀エヴァンゲリオンやコードギアス反逆のルルーシュは、主人公の行動に予測がつきません。物語の展開もあえて「引き」を多く作っています。そして「引き」とは「意外性」からくるハラハラ感です。これらは「意外性」を楽しむ作品といってよいでしょう。
児童文学は、派手さには欠けるけど秩序がある
児童文学は、物語の世界の中を主人公と一緒に歩めます。
舞台がファンタジーだとしてもそこには秩序があります。
突然、不思議な力に目覚めることはあまりありません。
主人公の思考が、突然、180度変化してしまうこともありません。
変化の過程をていねいに描いてくれるので、納得感を手放さないまま読み続けることができます。
一般の小説に比べたら、カタルシスも派手ではありません。
でも、着実です。深いです。染みわたります。
それが私の思う児童文学像です。
獣の奏者は、「本質」の扱い方を教えてくれた
「――なぜ、他人に話してはいけないのか、それがわかるようになるまでは、話してはだめ」
主人公の10歳の女の子「エリン」に対して、母「ソヨン」が言う言葉です。
好奇心旺盛で聡明なエリンは、このとき重大な本質に気付こうとしています。
しかし、10歳の少女であるエリンはそれがどういった類のものであるのかまでは分かっていません。
それは口にすれば自身を危うくしてしまう類のものなのですが、エリンにはただただ「新しい発見!」と映るだけで、その先の危険性には考えが及びません。
エリンはまだ自分の置かれた環境について何も知らないのです。
一方その危うさを知る母ソヨンは、娘が不用意にそのことを口にしないよう、
「――なぜ、他人に話してはいけないのか、それがわかるようになるまでは、話してはだめ」
というのです。
このときソヨンはエリンに「話してはだめ」と頭ごなしに命令はしませんでした。
「分別がついて、それでも必要だと思ったら使ってもいいよ」と受け取れるような言い方をしました。
この娘への愛情とも尊重ともとれる真摯な対応は、読者にエリンにとっての母親像を強く印象づけました。
しかも、考える事が好きなエリンにはとても効果的で、彼女の行動の指針として根付きました。
事実、このあとエリンは何度かこの母の言葉を思い出して、その理由を考えます。
「本質」ってことは免罪符にはならない
この、物語にとってもエリンにとっても重要なシーンは、私にとっても重要なシーンとなりました。
私は、「本質を知る」ということはゴールでないんだなということを学びました。
私は好奇心旺盛で、知ったことはとにかく人に伝えたくなってしまうたちです。
そんな自分を振りかえって、「これを言ったら誰がどう思うかな?」という思考が一切ないことに気づきました。
自分が見つけたことはとりあえず伝えたい! という私の習性の危うさを教えてくれたのです。
本質を知ったら、それをそのまま使ってよいわけではない。
正しいからって、それをそのまま他人に伝えていいわけではない。
正しさだって、認められないことがあるし、人を傷つけることがある。
ということを教えてくれた大切な本です。
おわりに
書評企画第1弾は、上橋菜穂子さん著『獣の奏者Ⅰ闘蛇編』でした。
この『獣の奏者』は本編4巻、番外編1巻の全5巻発刊されています。
最初は10歳のエリンが、大人になり、仕事を持ち、家庭を持ち、子を育てるようになります。
その傍らには常に「獣」がいます。
「獣」を通して人を知り世界を知り自分を知る物語です。
印象に残る言葉も、生き様もたくさんあります。
文化人類学者でもある上橋菜穂子さんのつくる、緻密で愛おしい世界観も楽しみポイントです。
よろしければぜひ、お読みください。