ゼロからさきへ

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シンゴジラは体験を武器にした:「楽しい」と形容する映画ではありません

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「あ、震災どうなったんだっけ……?」

寝ぼけまなこでスマホのニュースを調べる朝。

でも、災害に関するニュースは何もない。

 

あれ? 

 

……あ、地震じゃないや。ゴジラだ。

 

 

シン・ゴジラを見た翌朝のこと。

 

 

3.11のとき、私はテレビ越しに「災害」を「体験」した

3.11のとき、大学生だった私は東京都の自宅にいました。

揺れは感じたし、直後に予定していた演奏会は開催できなかったということもありました。

 

でも、肉体的な実被害はありませんでした。

身近な人を亡くしたわけでも、大切な場所を失ったわけでもありません。

帰宅難民にすらなっていません。

 

大学生の春休み期間中だったから、学校(や仕事)といった生活の基盤に支障が出ることもありませんでした。

多少の不自由はありましたが、それでも普通の生活が比較的保たれていました。

 

私が知る3.11は、家具の揺れと、テレビの映像だけ。

 

テレビには、大津波とそれによって破壊された街。

原子力発電所の事故と放射能

政府の粘り強い対応と、手放しには信じられない発言の数々。

 

テレビを「スクリーン」に、大津波を「ゴジラ」に換えればそのままシン・ゴジラです。

しかも映画館の客席の暗さは、節電のために部屋の電気は消しテレビだけを点けていたあの3月11日の夜を思い出させました。

 

私にとっての3.11とシン・ゴジラはこんなに似通っています。

 

「体験する私」と「ものづくりをする者としての私」

 作品を前にすると私のなかでは2人の私が押し合いをはじめます。

「純粋に作品に没頭する私」と「ものづくり視点で鳥瞰する私」

 

2人の押し合いが拮抗している状態でいることがほとんどです。

どちらかが勝って前面のポジションを取り、他方は後ろに控えるということはほとんどありません。

 

しかし、シン・ゴジラでは「作品没頭視点」が勝ってしまう割合が多かったんです。

 

これが、シン・ゴジラの持つ「体験」の力だと思います。

私は、ゴジラ到来をテレビ越しに見ていたのだと思います。

ゴジラの生き様の切なさや、日本の置かれた状況に心動かされたのです。

 

もちろん、「ものづくり視点」でも多くの感動がありました。

ストーリー構成の潔さや、伊福部昭さんの音楽の凄まじさ、間の扱いや、言葉の確かさに心打たれました。

けれどこのほとんどが、映画を見終わって思い返してにじみ上がってくる感動です。

 

虚構の世界であることを忘れて、実体験の感覚でいる時間が長かったこと。

それがシン・ゴジラの力だと思います。

 

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