七人の侍はなるほど名作でした:リアルさが脳に宿るシンゴジラと身体性に宿る七人の侍
初めて、日本映画を日本語字幕付きで視聴しました。
現代とは発語も発声や一般的に使われている言葉も異なる上に方言も強くて何を言ってるかてんで分からなかったのです。それは字幕で見ても意味の推測ができない単語があるほどでした。
奇しくも『ゴジラ』と同じ制作年、1954年に作られた作品です。
『ゴジラ』は未視聴ですが、避難に関する描写が『シン・ゴジラ』のそれとは違うというお話を耳にしました。
民衆のセリフや行動からちらちら感じる「戦争慣れ」感が面白いです。
さすが戦争を越えてきた人たち、避難のプロです。
※「シン・ゴジラ」がもっと面白くなるよと聞いて「初代ゴジラ」を観てみた - エキレビ!(1/2)より
そんなあの時代だからこその特徴を『七人の侍』も持っていました。
それは「身体性」。
脳優位で身体性が欠けている現代人
昨今、「人は身体性を取り戻そうとしている」ということをいろいろな人が言っています。
私が初めてこの考えに触れたのは齋藤隆さんの著書『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)』や『子どもたちはなぜキレるのか (ちくま新書)』でした。
もう5年ほど前のことなので詳細までは覚えていませんが、現代人は自分の身体がよそよそしいという不快感を持っているという記述に、いたく共感したのを覚えています。
それ以来、この考えといろいろな場で接するようになりました。
たとえば、「神道×仏教×修験道」という講演会に行ったときのこと。神主さん・お坊さん・修験者の3者が、今日本人は身体性を取り戻そうとしているということについて語り合っていました。
でも、「身体性を持った人間」ってどんな人?
それらの言葉に共感しそれが実現された社会に魅力を感じつつも、私は「身体性を持った人間」が一体どんなものなのか想像できませんでした。
私はあまり身体と親しくなく生きてきた人間です。
身体を動かすのは苦手です。跳び箱も飛べないし、後転もできません。球技はたいてい空振りです。
スポーツ以外の技術を習得するのにも、身体を何度も動かして覚えることよりも、脳で考えたりイメージしたりすることが先行しがちです。歌しかり、身振りしかり。
理想像をイメージを確かにしてからそれに向かって突き進んでいく方法を取ることが多いです。
私の身体の中で脳は自分の存在を強く主張します。考え事をするとき、手は口元や頬のあたりにやってきます。そして、いったん頭だけの世界に閉じ籠ろうとします。
ここまでではないにしても、現代人は誰しも「身体の主人は脳である」という傾向にあるのではないでしょうか。
『七人の侍』の人々は、存在の仕方が根本から違うようだった
しかし『七人の侍』に映る人々の脳は等身大です。
「身体の主人は?」などという発想があるように見えません。当たり前のこととして、身体はそれ全体で身体であることを承知しているように見えました。脳も身体の一器官でしかない。
脳はいつも稼働しているのではなく、考えるべきときに必要なだけ使われます。
叫ぶときは身体で叫びます。
笑うときは腹で笑います。
他人の話をじっと聞くときは腹が座っています。
走るときには身体は美しく連携します。
そして、大きな決断をしなければならないときに、じっと身体を止めて脳を使います。
現代とは違う作法がそこにはありました。
だからリアルさの表現が違う
『七人の侍』はリアルさにこだわってつくられた作品です。
『シン・ゴジラ』もリアルさにこだわって作られました。
そしてどちらも狙い通り「リアルさ」によって観客の心を打つ作品です。
ただ、この2作品のリアルさは異なります。それが時代性を表しているように思うのです。
『シン・ゴジラ』のリアルさとは脳のリアルさでした。言葉が多くを物語ります。
会議中に言葉がたくさん飛び交います。主要人物が自分の心情を独りごちます。要所要所ではテロップも用いられます。
『七人の侍』のリアルさは身体性に宿っています。身体が多くを物語ります。
台詞は少なめです。
地図を見て、この場所が地図ではどの場所に当たるかを数人で確かめて、ここの場所の様子を頭に入れて、それが完了したから次の場所へ移る。
この一連の動作を台詞なしで行います。それは、言葉がなくても身体が物語っているからです。言葉がないこと=間とはならないからです。
脳に突き進むのではなくバランスをとっていきたい
時代が変われば常識が変化するように、環境が変われば身体における脳の主張度も変化するのでしょう。
現代は戦後に比べ、確実に脳の高い主張度が求められます。
しかし、見境なく脳の主張度を高めればいいというわけではないのでしょう。
今、もしかしたら脳が存在を主張しすぎて、脳に振り回されている人が多いのかもしれません。
自分がただ自分としてここにいることが許せない人を見ているとそう思えてくる。
私を筆頭にして。
(そして、こうして考えていることがそもそも脳が優位すぎるのかもしれない)