七人の侍はなるほど名作でした:一人ぼっちを脱すために必要なもの
黒澤明監督映画『七人の侍』はキャラクターがしっかり作り込まれた作品です。
タイトルとなっている7人の侍も
対となる主人公である農民も
序盤に出てくる人足3人組も
一瞬しか登場しないとある女性も
過去のエピソードを映像として挿入したり、独り言を口にさせる必要もなく、彼らは人格をはっきりと示します。
彼らは生き様を背負っているから。
チームの問題児・菊千代
その中でも、一際自己主張をするのが浪人風の「菊千代」という人物です。菊千代は後に七人の侍に数えられるのですが、
登場時の彼の姿はまさに、問題児。
菊千代の行動は破天荒です。
尊敬する人に突っ掛かったり
強がって嘘を吐いたり
慟哭して思いをぶちまけたり
菊千代の身体には、純粋さと切なさから生まれたエネルギーに満ちています。常にだだ漏れ。ただし、捻くれ者のフィルターが掛かっています。
『七人の侍』は仲間集めからはじまりますが、菊千代は問題児故にチームメンバーになるのに時間を要しました。
しかし、徐々に七人の侍チームにとってなくてはならない存在となっていきます。
七人の侍チームが行き詰まったときにそれをぶち破るのはいつも菊千代なのです。
菊千代は菊千代にしか行えないことを成しました。
溝はいつまでもあり続けた
時間の積み重なりとともにチームメンバーとの繋がりを深めていった菊千代ですが、菊千代と他のメンバーの間の溝はいつまでもあり続けました。
菊千代は他のメンバーに笑われます。からかわれます。区別されます。
「ひどい」と思いますか?
しかし、私はこれこそが菊千代が菊千代らしく動き活躍した理由だと思います。
だって、生まれや育ちからして菊千代は特異なのです。本当に菊千代と同じ人なんてそうそういないことを菊千代は知っています。だから、多数派に溶け込むことなどできません。望んでもいないでしょう。
おそらく、菊千代の望みは「仲良しこよし」することではなく、一人ぼっちを脱したかっただけなのです。
区別するのと関わらないのとは全く違います。
菊千代にとって必要なのは等しく扱ってもらえることではなく、自分を見つけてもらえることだったのです。
現代社会は菊千代を生き生きとさせられるのか?
『七人の侍』の中の菊千代は、自分を知ってくれる人たちに出会い、生き生きとしていました。
しかし、現代に生きる菊千代はどうでしょう?
現代は「見え方」が気にされます。
初対面の人や関係の薄い人にも分かりやすく「私はあなたを不快にさせる存在ではありません」と明示することが求められます。
人の生き方が変わり、取り巻く環境が拡大したことによる順当な変化です。
けれど、そんな多数派のルールに溶け込めない菊千代はそんな社会の中で生き生きとはできないんじゃないかと思います。
菊千代は世の中を構成する全ての物・人が「きれい」と「汚い」を併せ持つことを知っています。
上っ面のきれいさを語られることは大嫌いです。反吐が出ます。
けれど、現代人はきっと菊千代に上っ面のきれいさを見せがちでしょう。
他人の目があるから。
菊千代を対等に扱うこと、菊千代が周りに溶け込めるようにすることが美徳だと、どこかで刷り込まれているから。
もしくは、全く関わらないか。
「お前ダメだなーー!」といいつつ輪から外れがちな子を可愛がる人は少なくなっているのではないでしょうか。
「ひとりぼっち」 を脱するために必要としているのは優しさではないんじゃない?
一人ぼっちの人は優しくされることを求めているわけではな
一人ぼっちの時にもらった優しさは、よく分からないコレジャナイ感が芽生えさせたりして、ときに一人ぼっち感を増長することさえあります。
一人ぼっちの人が求めてるのは、だれかとつながっている感覚なのです。
みんなと違うことをしたら怒ってくれたっていい、変だったら
……そもそも、優しくされたら喜べるような素直な人は「一人ぼっち」にならないんじゃないだろうか
みんな、誰かと繋がっていたいんです
私は音声学を勉強したからか、時の積み重ねによる変化は是非を論ずるべきものではなく、観察すべきものだという思いがあります。
(音声学は発音の変化をただ記録しその傾向を分析することはあっても、是非を議論したりはしない)
だから、現代がいいとか昔の方が良かったとか断じるつもりはありません。
でも、現代では菊千代は菊千代足りえなかったのではないかとは思います。
現代社会は菊千代を丸くすることはできても、菊千代の尖った部分を生かすのはより難しいのではないかと。
そして、繋がり方に敏感になる前に人と繋がることだけに着眼する道もあるのかなと思いました。