TEDから見る「社会」と「世間」
遅ればせながら最近、TEDにハマっています。
とある本でオススメされていたいくつか動画が面白くて、それから芋づる式にいろいろなものを見ました。
総じてTEDを気に入っています。
しかし、どんな面白いもの・好きなもの・興味をかき立てるものも、数積めば傾向や程度の差が生まれるもの。
具体的な動画について言及することは避けますが、20本ほど見終わったときに、
学びが明確で面白いスピーチと、情熱は感じるけど汎用性の高い学びは薄いスピーチがある
と感じました。
ちなみに前者には海外の方のスピーチが多く、後者には日本の方のスピーチが割合多く該当しました。
この差はなんなのでしょう。
「論理的構成力」のちがい?
「スピーチ力」のちがい?
「理解モード」か「共感モード」か?
そんな仮説を頭に置いてさらにTEDを見るうちに、
「社会」と「世間」だ!
と思い至りました。
「社会」と「世間」
ーー「社会」と「世間」。
この2つを対照的に捉える考え方をご存知ですか?
私がこの考えと出会ったのは、鴻上尚史さんの「コミュニケイションのレッスン (だいわ文庫)」でした。世に一般的なのは同じく鴻上尚史さんの「「空気」と「世間」 (講談社現代新書)」の方でしょう。
「社会」と「世間」の違いを端的に表すならば
どんな人とも語り合えるかわりに言葉を尽くす必要があるのが「社会」
コミュニティーの中で濃密に強くつながっているから言葉があまり必要でないのが「世間」
です。
都度、価値観の擦り合わせを行う必要があるのを「社会」、ないのを「世間」ということもできます。
よく古来日本の文化として語られイメージする「村社会」がまさに「世間」。ご近所づきあいがあるのは当たり前。家族構成・それぞれの近況まで知り合っているような環境です。今も田舎には比較的「世間」が残っています。
対照的に、都市化が進んだところは同時「社会化」も進んでいます。隣に住む人と日常的に会話をしないばかりか、顔も知らない場合もあります。
環境の違いに伴って、必要なコミュニケーション方法も違うのです。
発言と「社会」「世間」
TEDと関連の深い「発言」という切り口から「社会」と「世間」を比較するなら、
「社会」の発言は客観的な伝え方が特徴です。
論理的に、公式見解と理想論は分けて話されます。
業務共有のときに先達者が後輩に「この作業の目的は◯◯た。そのためにこういう手順を踏むんだ」というかんじ。うまく伝わらないときには、切り口を変え言葉を変え再度共有を試みます。自分と他人は価値観が違うことが前提ですから、伝わらないのをデフォルトと捉えます。
「世間」の発言は主観的な伝え方が特徴です。
感情的に、自分の本当の気持ちが、結論だけが語られます。
業務共有のときに「こうして、こうして、こうするんだ」というかんじでしょう。そして、うまく伝わらなければ「自分で考えろ!」「どうして分からないんだ!」と言う。それは、普段から深い関わりがあって、そこで多くのことを共有しているからこそ出てくる言葉・効果のある言葉です。
私はこの2つに本質的な優劣があるとは考えません。
ただ、TPOまで限定すればある程度「社会」「世間」のどちらが向いているか、傾向を示すことはできるように思います。
私はTEDの登壇者に「社会」を求める
TEDがその会場内だけのコンテンツで、そこに集まる人たちが何かしらで共通するコミュニティーに属する人たちなら、そこでは「世間」の力が大きく・効果的に働くでしょう。
しかし、集まる人たちのバックグラウンドがさまざまだったり、スピーチがネット上で公開されたりして、そこでもなお力を持ち続けるには「社会」の方が適しているのではないかと思います。