知識は琴線そのものだ。シャンパンの開け方とノックの仕方
私の日々の娯楽はアニメです。
今日は、『終末のイゼッタ』の第3話を見ました。
娯楽として見るアニメについて語るのはあまり好きではありませんが、今日はどうしても言葉にして残したい感動がありました。
それは、知識は琴線そのものだって思いの深まりです。
シャンパンの開け方が慣れて洗練されてた身のこなしだった
『終末のイゼッタ』第3話で、敵陣の将(?)2人が戦況にシャンパンを賭けていました。
賭けは引き分けのような形になり、2人で飲もう、と敵陣の将のうちの1人がシャンパンを開ける……
そのシャンパンを開ける描写が琴線に引っかかったのです。
なぜなら、数日前にワインのセミナーで教えられたとおりの開け方をしていたからです。
~安全で美しいシャンパンの開け方のポイント~
1. ボトルを斜め45度に傾ける
← 圧を上手く逃すため。またコルクが飛んでいってしまったときの危険度を下げるため
2. コルクを押さえるように片手を添える
← コルクは勝手に押し出されてくる。その勢いに任せて飛んでいってしまうことを防ぐため
3. ボトルをまわす
← コルクにくらべればコントロールしやすい
この3ポイントがきちんと守られていました。
その動作に慣れて洗練された身のこなしだったのです。
ということは、この敵陣の将、引いては敵陣の国そのもの、もしくはこの作品の舞台となる時代や世界観そのものがそこそこに文化的教養が高いことが連想されます。
それから、このアニメの制作陣はこういった何気ないシーンまでも注力して作品を作っていることが分かります。
小さな積み重ねが、「佇まい」をつくる
作品にしても人柄にしても、その佇まいは小さな積み重ねによって作られます。
知識がなくてその1つ1つのものに目を留めて、感動したり評価したりすることができなくても、全体感としてなんとなく「しっかりしている」とか「丁寧」とか「雑」とかを感じ取るものです。
初対面の人と会った感想を友だちに伝えるときに、「具体的には言えないけどなんかしっかりしてそうだった」「なんかオーラがなかった」と言う。その「感じ」というのは、自分で切り取って認知できなかった小さなことの積み重ねに依るものです。
知識がなくても感じることはできるけれど、「感じ」を人に伝えることはできません。
言葉が与えられなかった感覚は、再現性を持たないからです。
なので、あとで「あの感じ」を思い出すということもできません。
感覚は瞬間の中でしか効力を持たないのです。
しかし、言葉があれば(言語化するための知識があれば)いろんなことができます。
感動を人に伝えることができます。
「なんかね、描写が丁寧な作品なんだよ!」ではなく、「ワインを開けるシーンにすら丁寧な描写を用いるほど、描写が行き届いた作品なんだよ!」って言えます。
後に似た感動を覚えたら、比較してみることができます。
丁寧な描写といえば、『アナと雪の女王』のノック
今回の「描写の丁寧さ」でいえば、たとえばディズニー映画『アナと雪の女王』。
その、アナが姉のエルサの扉をノックするシーンです。
日本人が日常的に思い描くノックといえば「コンコン」でしょうか。
しかし、この2回ノックは国際的にはトイレノックといわれ、それ以外の場ではあまり使われることはありません。
国際的に正しいノックは「軽快にテンポよく4回」です。
※プロトコール(国際儀礼)で定められています
では、『アナと雪の女王』のアナのノックは何回だったかというと、3回でした。
3回というのは「プライベートノック」とも呼ばれ、親しい間柄で行われるノックです。
「アナが姉であるエルサの扉をノックする」というシチュエーションにぴったりなノックの回数だったのです。
知識の醍醐味は、勝手に美味しい思いができること
こうして『終末のイゼッタ』のシャンパンを開けるシーンから、『アナと雪の女王』を連想できるのは、この2つの間を結ぶ「描写の丁寧さ」を具体的に読み取れたからです。
一見、何のつながりもないようなものに、勝手につながりを見つけて、勝手に感動して、勝手に美味しい思いをする。
そんなことが起こるのが、知識の醍醐味じゃないかなと思います。