やっぱ講義って「生」ってことに価値があるんだな
今、習い事に通っている。
長期の習い事で、週2回平日の夜に講義を受ける。
仕事終わってからの夜の時間の受講にも関わらず、いつも楽しい。面白い。
目を光らせて先生やスライドを見て、モリモリとメモを取る。
ある回、仕事の都合で受講できなかった。
そんなときには後日ビデオ受講ができるのも、この講座の受講を決めた理由の一つ。
決められた時間に各自のPCで決められたアドレスにアクセスして、各々受講する。
講義は、講師が一方的にお話する形が取られることが多い。
だから、実際に受講したときと同じとはいかないまでも9割ほどの満足度と学習度を得られると見込んでいた。
そして、やってきたビデオ受講。
いつものようにモリモリとメモをとった。
しかし、中盤に差し掛かって、飽きた。
というより集中できなくなった。
「あー、あのメールの返信してなかった」とか
「そいえば洗濯物溜まってるんだっけ」とか
「私、なんか疲れてるな」とか
「今、集中できてない。一時停止してリフレッシュしてから再開するか?」とか
「お腹減った」とか
「眠い」とか
意識が揺れた。
もともと興味があちことに飛ぶタイプで、講義中、脳に余白ができたらその余白でいろいろなことを考えるタイプではあった。
生の受講なら、「この講師の伝え方を分析してみよう」とか「今おっしゃったことって、分野を変えて言い換えるならこういうことかな」とか、授業に紐付いたことにアンテナが向く。
しかし、家での受講は「自分の状態」や「家の状態」に関することが脳の余白にどんどん流れ込んできた。
そうして講義の流れから取り残されてしまっては、そこに戻ることは容易じゃない。
あーー。やっぱ講義って「生」ってことに価値があるんだな
ってことを実感しました。
「場の雰囲気に支配される」
そんなことがこの前あって。
小林秀雄さんが「講演を行うこと」について語っていた言葉を思い出しました。
人々が共通の目的を持って一同に会すれば、必ずその場の雰囲気に支配される。
小林秀雄全作品〈21〉美を求める心『喋ることと書くこと』より
これと出会ったときは講師の立場で読んでいて、「こうなったらやってやるか!」という思い切りを引き出してくれる発想だなと思いました。講師を勇気づける言葉だと。
しかし今回のことで、聞き手の背中を押してくれる発想でもあると思いました。
そんな発想のなかから一つの要素を取り出して「思考停止」って言語化して、今回の私の体験を紐解けるんじゃないかと思います。
つまり、私は家では「思考停止」できなくて講義を面白くなく感じてしまったけれど、もし生の講義だったらその場の環境の力を借りて上手く「思考停止」できて講義を楽しむことができたんじゃないかと思うのです。
家で、一人の空間って、その環境の主人は紛れもなく自分です。
自分にすごく敏感であることを許される環境です。
だから自分の些細な思考も際限なく働かせることができるし、そういう使い方に慣れています。
そうして、脱線して行き着いたのが「一時停止するか?」です。
私は講義からの離脱を選択肢に挙げたのです。
それに対して、講演会場の環境の支配者は「場の空気」です。
「多くの人がここに一つのものを享受するために揃った」その空気の方向性と無関係でいることは不可能に近いでしょう。
多少つまらないと思うことがあっても、その対象に向かい合いつづけることになります。
そうしているうちにつまらないところは抜けて、面白く感じるところが出てきたりします。
そんな「一時停止するか?」の選択肢がそもそも浮かばない状況、つまり無意識のところで「思考停止」が働いている状態が、講義を楽しめる要素の一つなのではないかと思いました。