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ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

「スクラップアンドビルド」に関する一抹の不安

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シン・ゴジラ』のラストにほど近いシーン。

 

赤坂内閣官房長官代理に印象的な台詞がありました。

スクラップアンドビルドでこの国はのしあがってきた、だから今度もやれる」

 

ちょっぴり悲壮感を秘めつつも、脅威を越えてなお崖っぷちの日本を背負う者が口にする「スクラップアンドビルド」に、覚悟と希望を感じました。

 

『破壊の裏に創造あり』には刹那的な美学がある

スクラップアンドビルド」とは、

 

古くなった既存のものを壊し、新しいものに置き換える

 

 

という意味を持った言葉ですが、私がこの概念と出会ったのは、多分、『鋼の錬金術師』のルイ・アームストロングの台詞

 

『破壊の裏に創造あり』

 

だったように思います。

 


大好きな漫画の印象的な言葉だったからか、

 

・新しいものが生まれるとき、その裏では何かが壊れている

・何かが壊れたからこそ、新しいものが生まれる余地ができる

 

と、「壊れる・壊す」ことと「生まれる・生み出す」ことの間のはかない運命性に美学を感じました。

 

「散るからこそ桜は美しい」的な、刹那的な美しさを。 

 

 

このような「スクラップアンドビルドに美学を見出す」のは、ルイ・アームストロングや私だけではなく、多くの日本人もきっとそうだと思います。

 

 

「スクラップ・アンド・ビルド」とパッケージ化した日本人

この美学は、大きな自然の力と折り合いを付ける際に絶大な力を発揮します。

当事者に必要なのは、「スクラップ」の原因を探ることよりも、今を生きるために前へ進むことです。

 

破壊の後、半ば反射的に

 

「破壊されても、そこから這い上がる力があるんだ!」

 

と思えることは、当事者自ら立って歩くための力になります。

破壊から復興までを一つの流れとして捉える概念があるからこその作用でしょう。

 

 

そんな原因を問うより課題と向き合う姿勢は、生き様としてカッコイイ。

それを導く「スクラップアンドビルド」という言葉もカッコイイ。

 

少し前までそんな風に思っていました。

 

 

しかし、今、「スクラップアンドビルド」を無条件にカッコイイものだと私は思えなくなりました。

 

 

「スクラップ」は失敗体験の場合もある

それは、「スクラップアンドビルド」が濫用されているように思うからです。

 

多く、「スクラップアンドビルド」は成功体験の響きを帯びて、「だから頑張ろう!」という文脈の中で用いられますが、その「成功」は後半の「ビルド」に宿るものです。

 

そして、前半の「スクラップ」は本来「仕方のないこと」であるはずです。

しかし、昨今「スクラップ」が「失敗」である場合にも「スクラップアンドビルド」が用いられていることがあります。

 

 

たとえば、明治維新後の急成長や敗戦からの復興が「スクラップアンドビルド」の一例として語られる場合があります。 

 

しかし、それは一つの流れとして捉えていいものでしょうか。

 

確かに流れを見れば「スクラップアンドビルド」の要諦を成しています。

けれど「スクラップ」に人的問題が絡んでいるのなら、「スクラップ」単体をしっかりと振り返るべきではないでしょうか。

 

 

スクラップアンドビルド」=成功体験ではない

国家という大枠ではなく身近な組織においても、「崩れた。でも立て直した。そして立て直したものは前より強くなった」というとき、「スクラップアンドビルド」という言葉でまとめてしまいたくなります。

そうして、一つの成功体験としてストックしたくなります。

 

けれど、崩れたとき毎回都合よく立て直すことはできないかもしれないし、崩れずに強くなれるのならそっちの方がいい。

 

 

スクラップアンドビルド」というどこはかとない美しさのために、「スクラップ」の要因を探ることから無意識的に遠ざかってはいないか、目を曇らせてはいないか、と私は時々不安になります。