「社会」の人たちと喋るのが苦手な私たち
満員電車が嫌いです。
満員電車というものは苦痛に満ちています。
身体の距離がありえない近さであるという苦痛に加えて、コミュニケーションが成立していないという苦痛。
見知らぬ人と密着するというありえない身体の近さのために、バランスを取ろうとしてなのか「自分の殻に閉じこもる人」が多いように感じます。
たとえば、降りる人が少ない駅で出入り口から遠い人が降りるとき、無言でドンドン体当たりをするようにして人を掻き分けて降りていかれる人がいらっしゃいます。
一言、「降ります!」と言ってくれれば、モーゼの十戒のようにとはいかずとも、うっすらと道が開かれるでしょうに。
たとえば、降りる人が多い駅で出入り口から近い人も遠い人も、我先にと出口へ向かいます。そのためにドアのあたりはもみくちゃ。
電車に乗る順番待ちをするのと同じように、電車を降りる順番待ちをすれば、髪が乱れたり服や鞄の型崩れを起こすことなく済むでしょうに。
たとえば、雨の日の電車では、立っている方の持つ濡れた傘から垂れる雫が、その前に座っている方の靴に当たることだってあります。靴が濡れてしまうのは誰だってイヤでしょう。でも、だからといって手で押しやるというのはいかがなものでしょう。押しやられた方にイライラして反骨心が芽生えるかもしれません。
一言、「すみません、傘から垂れる雫が私の靴に当たっているので、よけていただけませんか?」と言葉があれば無駄な衝突が避けられるのに。
満員電車は「社会」。身体での意思疎通は場にそぐわないと思う
満員電車で居合わせる人たちは、「社会」の人たちであって「世間」の人たちではありません。
こちらの記事で取り上げましたが、
「社会」とは、さまざまな人がいて、コミュニケーションに言葉を尽くす必要がある環境、
「世間」とは、コミュニティーの中で濃密に強くつながっていて言葉があまり必要でない環境
を指します。
そして、日本人は「世間」は得意だけれど、「社会」には抵抗感があるといわれることもあります。
自分の領域が見知らぬ人に侵される満員電車は、動物にとって過酷な環境です。
だからつい防衛本能みたいなものが働いて自分の殻に閉じこもりたくなります。
そして、他人への配慮なんて概念から忘れ去ったような行動をしがちです。
でも、人と人が同じ環境にいるのですからコミュニケーションはなされています。
満員電車の中ほどに居て、「私はこの駅で降りたい」と思ったときに誰とも接触せずにドアにたどり着くことはできません。
言葉で近くの方の協力を得たり、進行方向へ向かって突進するという行動で周りの方を動したり、何らかの形で他人との交流が行われます。
見知らぬ人とコミュニケーションを取るのに、「身体」ではなく「言葉」の方がまだ心地よくはありませんか?
もうちょっと、「社会」の人と喋るのに抵抗をなくそうよ、日本人……と、満員電車に乗るたびに思います。