世の中、結局ハウツーだよ
結局、人の興味は情報と手段に向く。
私の行動を省みても、他者の反応を分析してみてもそんな風に思うこの頃。
人はいつだって解決されたがっている
人は、たくさんの「解決されたら快感だな」という何かを抱えて生きています。意識的に、無意識的に。
TVを見ていて気になる情報があればその場でググったりします。「気になる」を解決するために。
その場で検索はしなかったけど、ニュースアプリを開いた時に「あ、さっきTVでやってたやつだ。気になってたんだよなー」とクリックすることもあります。「気になる度」は低めですが、これも解決のための行動。
それから、ネットサーフィンをしていてなんとなくタイトルが気になったからクリックする場合もあります。これは無意識にあった「これが解決されたら快感だな」が刺激されたからかもしれません。「気になっている」って自覚がなかった場合だけど、やっぱり解決のための行動だと思います。
人はたくさんの「解決されないかな」をストックして生きているように思うのです。
そんな「解決されたがっている人」と「スマホ」の関係について考えてみました。
スマホから得る情報に「納得感」を重視する人は少なそう
私たちが情報を入手する手段はたくさんあります。
スマホの他に、タブレット・PC・TV・ラジオ・新聞・雑誌・書籍・詳しい人に聞く・講演会に参加するなどなど‥‥。
この中でのスマホの特徴は、一番身近であることと多機能を持つこと、そして即効性です。
TVを見ながら検索する。通勤時間でお気に入りのサイトをチェックする。お化粧室に立ったついでにSNSをチェックする。スマホは私たちの生活と「小さな解決」を強く結びつけています。
その反面、「大きな解決」には向きそうにありません。
大きな解決でカタルシスを得るには大きな納得感が必要です。そして、論理的な正解にたどり着けるかどうかと納得感は別物です。
お菓子を買うときなら「あー、これにしよー」で決められるけど、高価な買い物をするときは「あ、これいい!」と思っても違う選択肢を検討してその上で「やっぱりこれ」と選択する。結果は同じでもあえてそのプロセスを踏むのは、それが納得感のために必要だからです。
納得感は儀式みたいなものが必要です。手段や掛ける時間が普段と違うことが重要なのではないかと思います。
とすると、「小さな解決」のための手段であるスマホは、納得感を醸成するのにはあまり向いていない、そんな風に思うのです。
求められていることに当てていくなら「簡潔な」情報と手段
書き手はつい、大きいことや抽象的なことを書きたくなってしまいます。
まとめサイトやSEO狙いのハウツーサイトが検索で上位に来て目にすることが多いからか「ハウツーは低俗、思想は高尚」みたいに思ってしまいそうなこともあるります。
でも、個人の思いを吐き出すためのブログならそれでいいけれど、読み手を意識して何かを作るならスマホは大きな解決ではなく小さな解決向きだと仮定して取り組んだ方がいいのかもしれません。読者が求めているものに当てにいくとしたら、内容も伝え方も質の高い情報のまとめやハウツーやノウハウを軸に構成するのがいいのかも。