ゼロからさきへ

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『ゴジラ』も『シン・ゴジラ』も「万人の正義」が存在しないって叫んでるみたい

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昨年は、私にしてはいろいろと映画を見た1年でしたが、見たその時もその後も長く楽しんだものと言う意味では1番は『シン・ゴジラ』でした。

振り返れば『シン・ゴジラ』に関連してブログも7記事書いています。

(1. シン・ゴジラは災害体験/2. 伊福部昭の音楽の切なさ/3. 伊福部昭と鷺巣詩郎の音楽の対比/4. シン・ゴジラは明確な「軸」に沿って作られている/5. シン・ゴジラのリアルさは脳に宿る/6. シン・ゴジラの視聴は理解モード/7. 名台詞「この国はスクラップアンドビルドでのし上がってきた」について

 

ネット上の『シン・ゴジラ』関連記事も多く読みました。その中に、初代『ゴジラ』との類似性を指摘する記事が多くあり、気になっていた『ゴジラ』をようやく視聴しました。

 

まず一言で感想を述べるなら……

庵野秀明監督映画『シン・ゴジラ』と同様に本多猪四郎監督映画『ゴジラ』もまた「体験」でした。

 

zerokarasaki.hatenablog.com

 

というより、「体験映画である」という点において、『シン・ゴジラ』は初代『ゴジラ』の系譜を引き継いでいるんだなということが分かりました。

 

ゴジラは「3.11」vsゴジラは「第2次世界大戦」

シン・ゴジラ』は、多くの日本と関係ある人にとって印象深く、また身近に感じる出来事だった「3.11」の追体験でした。

 

そしてゴジラは』局所的には「東京大空襲」、広い意味で取ると「戦争」の追体験です。

「戦争」は、原子爆弾や尾を引く放射能の影響、父が出兵して戦士し残された母子の心境、疎開、避難など小さな事象を内包したものです。当時を知らない私でも、こういったようなことを読み取れますが、公開当時の方々はもっと多くのことに、もっと細かいことに反応したのではないでしょうか。境遇に共感したり、役者の台詞が自分の言いたいことを代弁してくれているように感じたり。

 

こうして何の追体験かが違うから、ゴジラの出現の表現も違う。

シン・ゴジラ』では、ゴジラは「津波」。だから周囲を巻き込むようにして這うように濁流として現れた。街を破壊していくけれど、それは上から打ち砕くというよりは、横から押し崩す動作による。

 

一方『ゴジラ』では、ゴジラは「爆撃機」。だからしっかりと歩いてやってきてそこらを火の海にする。『シン・ゴジラ』のゴジラがかなり神格化された神秘性を持っているのに対し、『ゴジラ』のゴジラは神格化されはするもののどこか身近さを持って描かれる。それはゴジラの破壊が「自然災害」ではなく「人災」の暗喩であるからだろうか。

 

 

視聴後はやっぱり割り切れない気持ちに

 

以下の記事で、初代『ゴジラ』の音楽を担当した伊福部昭の「切なさ」に触れましたが、やはりゴジラは「切なさ」を内包したお話でした。

 

zerokarasaki.hatenablog.com

 

既に方方で語られていることではありますが、ゴジラは悪者がいない映画です。一応敵はゴジラだし、ゴジラは生活を破壊し人を殺しもします。でも、悪者としては描かれません。

ゴジラ』でも『シン・ゴジラ』でも登場人物が「殺さなくても……」と言ったりします。ゴジラを悪者にしないことで、単なる勧善懲悪のヒーロー映画にしないような、世の中には良い悪いで割り切れないことで戦わなきゃいけないこともあるというような、製作者の叫びのようなものが聞こえてくる気がします。

 

世の中や人の生き方に、明確な「正義の道」があれば争いももう少し分かりやすい形になるのかもしれないけど、「正義」は個人や一定の共同体の心の中にしかない。人と人や共同体と共同体が交わるようになったら、それぞれの「正義」が異なるために、悪者はいないのに戦わないといけなくなる。

そんな、世の中の難しさを『ゴジラ』は訴えようとしているのかなと思いました。