意識高い系と意識高いの境目ってどこにあるの?
「意識高い」って言葉は、褒め言葉にもけなし言葉にもなる。
言葉の意味がポジティブからネガティブへ広がったり、狭い意味から広い意味に広がったりするのは、言語の性みたいなもの。
「ありがとう」だって感謝を伝えることもあれば嫌味を伝えることがあるし、「いつもありがとう」なんて挨拶代わりに使われることもある。
そのときの話の流れとか、そのときの空気とか、表情とか、声の感じとか、そういったものによって、言葉の伝える意味は変化する。
ただ、「意識高い」は「ありがとう」と比べれば新しい言葉だから、その言葉が伝える意味のバリエーションは狭い。
褒め言葉かけなし言葉に大別できる。つまり、「あなたのことほんとうに凄いと思う」か「凄そうなことやってるけど、別に共感できない」のどちらか。
この後者は裏では「意識高い系」って呼ばれるものだけど、表ではちょっとずつ相手の気持ちいい言葉に言い換える日本人の性によって、「意識高い系」は「意識高い」に変身する。
「意識高い」と「意識高い系」の境目
そんな、「意識高い」と「意識高い系」の境目が気になっている。
他者のエピソードを聞いたり、FBを見たりした時に、「意識高い!」って思うときと「意識高い系だ―」って思うときがあるのです。
たとえば、「毎日名言を紹介する」っていうこと。
括ってしまえばそう言える行動も、TPOによって私の捉え方が変わる。
ネットや本から借りてきた名言をそのまま載せるだけなら、それは「意識高い系」。
今日の名言:「継続は力なり」
でも、名言にその人なりの言葉がくっついていたら、それは「意識高い」に近づく。
「継続は力なり」っていう言葉の重みを今になって感じる。どんなにいい発想があったとしてもそれを実行して形にしないと誰にも気づいてもらえない。そして、大きなことをしたいときほど形になるまで時間が掛かる。その途中で折れてしまう可能性は桁外れに大きくなる。でも、形にするまで頑張れないと、他者から見たら何もやってないのと一緒。今年、結果にこだわりたい私は「継続は力なり」を意識しようと思う。
そして、その言葉が多くの人の共感を呼ぶのなら、それは完全に「意識高い系」から抜けて、「意識高い」をも抜いて、「凄い人」ってもっとシンプルに表現されるようになる。
たとえば、「自分磨きにお金を掛ける」こと。
これも状況によりさまざまだと思う。
お金を掛ける対象を次から次にファッションのように変えるなら「意識高い系」だと思う。その対象がエステでも健康食品でも習い事でも。
反対に、継続して取り組んでいたり、行っていることに一貫性があるように見えると「意識高い」に近づく。
さらに、それが仕事につながったり社会に貢献できることだったりして、投資した分、何かが返ってくる様子だと、それはもっと「意識高い」に近づく。ただ、その「何か」は、楽しさとか充実感とか自分しか測定できないものではなくて、客観的に測定できるものであった方が、理解したり共感したりしやすい。
こうして、ちょっぴりザクッと考えてみただけだけど、「意識高い」か「意識高い系」かの境目は行動というより「取り組み方」の方にあるみたい。そして、共感や憧れといったポジティブな感情が生まれたときに「意識高い」って思えるみたい。