ゼロからさきへ

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毒されても「ほのぼの日常」はゼロにはならない:この世界の片隅に

戦争という日常

 

映画『この世界の片隅に』は「ほのぼの日常」ではじまります。
古き良き時代などと形容されることもありますが、形式が色濃い日常。

 

子どもは家事や仕事の手伝いをするし

お兄ちゃんは妹たちに偉ぶるし

お嫁に行くということは知らない土地に放り出されること

 

私にしたらすごく不自由なことに見えるのに、登場人物はあっさりと行う。

お嫁入りの儀式が終われば家族はあっさりと帰り、それをすず(主人公)はあっさりと見送る。帰省から帰郷する現代の大学生の方がよっぽど別れを惜しんでいるんじゃなかろうか。

そして、すずはその夜から新しい家族の生活を支える女となり、お釜を磨く。

 

 

中盤、いつのまにか戦争が始まった。食料が配給制になったり、空襲警報が鳴ったり、空襲に備えるための壕を掘ったりする。

「ほのぼの日常」は「戦争のある日常」へ移りゆく。


不謹慎かもしれないけど、それは「ほのぼの日常」の延長線上だった。

急に、ある一点で一変するのではない。

家族が戦死したって、原爆が落ちたって日常は日常。

 

 

この世界の片隅に』に対して、「戦時中に恋なんて、歯を見せて笑うなんて不謹慎だ」という人がいるらしい。

多分、その人は戦争を「特別」だと捉えてる。

 


でも、戦争は長い。第二次世界大戦はあまりに長かった。

戦地に放り込まれた人じゃない。TVによって生々しく戦地の情報が送られて追体験できるわけでもない。空襲があるとはいえ戦場にはいない人たちが特別扱いできる長さじゃない。戦争は「つねひごろ」だ、日常だ。

 

 


戦争という特別期間があることより、日常が徐々に戦争に変わってしまう方が、私は怖いと思う。

気づかないうちに徐々に毒にならされて、本来の致死量を超えても気付かない。自分が変わってしまうことに気付けない。

 

気付けないことは声を上げられないことだ。本来なら望んでいない世の中の流れを進めてしまうということだ。