物干し竿が落ちたから、違和感について考えることになった。
さっき、物干し竿にしている突っ張り棒が落ちました。
「そろそろ落ちると思ってたんだよね」
そんな思いを小さな息に乗せて吐き出して、突っ張り棒を落とした原因である洗いたての服を拾い上げてると、思考がツッコミを入れる。
「だったら干す前に一捻りしときゃよかったじゃん。私」
「というか、大分前からそう思ってたんだし」
断続的とはいえ1ヶ月以上、予感はあった。洗濯物を掛けた時のしなり具合がちょっとゆるかったし。
なのに 「そろそろ落ちると思ってたんだよね」って物知り顔は我ながらウケる。
その時何も行動を起こさなかったくせに、後になってから「違和感あったんだよなー」とか言う人みたい。
私は、問題点が発覚してから「違和感があったんだよな」ということはあんまり好きじゃない。
だって、ほとんど全ての物事は問題点や改善点をはらんでいるから。違和感は的中が当たり前。
作られた時点では完璧と思われたものだって、時間が経てばそうでなくなっちゃうから。
それは経年劣化かもしれないし、時代や使用者の変化にそぐわなくなったということかもしれないし、別のところでより良いものが開発されたということかもしれない。理由はいろいろあるだろうけど、ベストな状況というものは瞬間的なものだ。
だから、ものづくりをしているとき、対処法を探すために違和感の正体を探ることはするけど、言い訳のように「違和感があったんだよなー」とかって言うのはあんまり好きじゃない。
物干し竿はものづくりじゃないからいいんだけどね。