それ以来、私は書き写す作業を「写経」と呼ぶ。
小説を読んで気に入ったフレーズがあったら付箋を貼る。
WEB記事を読んでいいフレーズがあったらスクショする。
それを後日、手帳に書き写す。
歌に取り組むときは、歌詞を紙に書く。
私は、大学生の頃から言葉をノートに書き写す癖がある。
必要に駆られた気がしてはじめた行動だった。
昔から文章を書くことが多かったから、気に入った言い回しや興味を刺激する情報があると「いつか生かしたい」という思いで書き残したのがはじまりだった。資料集をつくるみたいにして気に入ったフレーズをノートに書き写した。出典の明記をしたくなるだろうからと、一字一句違わずに。
歌詞を書いていたのも、あるところパフォーマンスだったんっだと思う。仲間や先生に対して、努力はしていると示したかったというのが一番の理由だった。
しかし、浅い動機で始めた行動でも積み重ねれば一段深いところにたどり着けるらしい。
ノートに書き残すことをはじめて6年ほどが経つ。
途中、嫌になって投げ出したいこともあった。
読み返すことだってほとんどない!
何のためになるんだ!
って思ってやめたくなるときもあった。
でも人の目に過敏な私は、ノートに書き残すってことが私の形容詞みたいになっているように思えて辞められなかった。ただ義務感から続けていたような時期が2年くらいあった。
そんな時、一度本番に乗せていただいた合唱団の、ご年配の指揮者の先生がこんなことをおっしゃった。
お前ら、歌詞の漢字、浮かんでるか?
楽譜は音符にあわせて書かれるから、歌詞はひらがな書きされる。
この先生は、楽譜の余白に、原文ママの歌詞を書けと言った。
俺がいつも言ってるのにやってないってことは、「歌詞を書き写す」ってことに意味を感じてないんだろ。
確かに、楽譜の隅に歌詞が書いてあるってことだけで、そんなに歌は変わらない。
むしろ、時間を取ってその歌詞と向き合うってことそれ自体が大事なんだ。
ほら、俺は今だって書いている。
これは写経なんだ。
こんな口調ではなかったけれど、「一字一句違わずに書き写す」その行為が歌詞の理解を深めるのに大切だとおっしゃった。
私の2年はこの言葉に救われた。
言葉を書き写す時間は未来への投資ではなく、その言葉との出会いを深めることなんだ。
それ以来、私は書き写す作業を「写経」と呼ぶ。
書き写すって行為自体がていねいになると、「今の自分と向き合う」という意味合いも帯びるようになった。
写経というのは、「右と同じように書き写せ」ということだ。
いつどんなときでもできそうな簡単なお題。なのに、「全く同じ」を行うのが難しい時がある。眠い時、考え事がこびりついているとき、興奮しているとき。誤字をすることもある。写し間違いをすることもある。
正解のある単純作業を正確にこなすこともできないってことを知った。脳にはムラがある。脳って頼りない。
加えて、脳って身勝手だ。
気を付けていても、原文が「分かる」のところを「わかる」と書くことがあった。「はずであった」を「はずだった」と書いていたこともあった。
それは、書いてあることを「そのまま」ではなくて、自分流に置き換えて理解しているってことだ。そりゃあ、言った/言わないとか、聞き間違いとかっていうコミュニケーションエラーも起こるわ。
……写経しない人が気付けない小さな微修正を私は重ねている。
その小さな気付きは私に感動を与えてくれる。
そうして自分の状態を自分にフィードバックするために、私は写経をするのかもしれない。