ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

「私、いま、なんでもできる気がする!」って口にしてるワケ

 

「私、いま、なんでもできる気がする!」って口にするのがマイブームです。

 

はじまりは「私、いま、エネルギーに満ちてて元気だ!」って思ったからという順当すぎるきっかけですが、これが1週間も続くマイブームになっているのは、そう口にすることで感動を追体験しているからかも。

 

 

「私、いま、なんでもできる気がする!」って言っていると、「例えば何したい?」と具体例を聞かれたりする。

 

 

はじめの数人からは「量」を問われた。

「何曲くらい歌いたいの?」「どのくらいの時間歌ってたいの?」などと。

そのとき、少し考えてから適当に「10曲くらい!」とか「10時間くらい!」と答えた。

でも、自分が口にした言葉ながらそこにキラキラ感はなかった。

 

 

4人目に、「質」を問われた。

「どういう曲歌いたいの?」と。

スッと答えが出た。

「混4で音数が多い曲の初見大会したい!(意訳:難しい曲にガッツリ取り組みたい)」

そう答えて自分で瞳孔が開いた気がした。

これ! これだ! 私がやりたいのは! ってキラキラ感があった。

 

 

いままで自分で自分に間違った連想を押し付けていたことに気が付いた。

いままで「エネルギーに満ちている→とにかくたくさんやろう!」って「量」の思考回路が働いていた。でも満足しないことが多々あった。エネルギーを上手く発散できていない感じを覚えることがあって、自分で自分に戸惑ったりしていた。

 

その謎が晴れて感動してる。 

エネルギーは「量」でなく「質」にぶつけられるべきものだったんだなって。

 

熱が「歌」に向いたならそれは、10時間歌っていたいではなくて、「難しい曲にガッツリ取り組みたい」だし、

熱が「書くこと」に向いたなら、ブログを5記事書きたいではなくて、「構成をしっかり練った記事を書きたい」だし、

熱が「読むこと」に向いたなら、読みやすい本をたくさん読みたいではなくて、「自分から遠く感じられるような本を解読するようにして読みたい」だなって。

 

 

私はこれまで「なんでもできる気がする!」という言葉から「量」的な連想しておきながら、本心が求めていたのは「質」的ものだったんだって、このときはじめて気が付いた。


その感動を引きずっていて、引きずりたくて、それから数日経ったのにまだ私は「私、いま、なんでもできる気がする!」って言い続けてる。