ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

痴漢報道は嫌いだ。罰かヒーローなら、私は「ヒーロー」が欲しい。

 

痴漢系の記事を定期的に目にする。

私は、そのほとんどが嫌いだ。

 

女性に、痴漢にあったらこう対応するとちゃんと男性が罪に問われますよっていう記事も、痴漢冤罪を恐れた男性が線路に逃げたという記事もイヤだ。

 

そういった記事や報道の根底には「罪と罰」がある。

「痴漢されたら、被害者は加害者を罪に問うべきだ。加害者は罪を受けるべきだ」という文脈が必ずあるような気がして。

 

それがなんかイヤだ。

そんなふうに強くなれない私のちっぽけさとワガママさに気付くから……。

 

 

 

 

まず、私は女だ。

そして、私は痴漢被害者だ。

 

 


でも、私は「報いを受けろ!」って思ったことはない。

痴漢の初体験はたしか小学校の頃で、原体験が幼すぎたからということもあるのかもしれない。


私は、「やめて!」と反射的に思うだけ。

私のゴールは、痴漢が辞められることその1点のみ。

加害者が私に触ることが止まればなんでもいい。

その後の加害者のことなんて知らない。

トーカー要素がないなら、私はそれでいい。

 

 

 

でも、世の中の特に報道やネット上の論争は、未来を見ている。

痴漢にあった瞬間どうやって痴漢をやめさせるかではなく、どうやってちゃんと加害者を罪に問い罰を与えるかを論じている。

 

 

その「罰」は未来に影響を与えうる。

痴漢でいうなら、痴漢が罪に問われ加害者が裁かれることが、次の痴漢加害者を生まない抑止力になる可能性がある。そうすると社会はほんの少し安全になるかもしれない。

 

世の中は 未来の安全を考えている。

 

 

それなのに、半ば反射的にイヤだと感じる私はちっぽけでワガママだなーと思う。

私は、「今の私」しか考えていないから。

 

 


ちなみに、私はいつも痴漢撃退に第三者を巻き込んでしまう。

加害者と関わりたくないという嫌悪感からなのか、加害者に対して「反応」すること全てがイヤだ。

でも、何も対応せず放っておくのはもっとムリ。

だから、たとえば満員電車で痴漢されたら近くの人の服を引っ張る。助けてもらう。

そして、助けてもらったら、助けてくれた人に感謝を伝えて終わり。

 

この、「終わりが感謝」というのが私にとって重要で。こうなったときは、あまり後に引きずらない。

すっごく自分勝手な振る舞いだし世界の見方だけど、こうするとその時の私の世界には、イヤな人が1人とヒーロー人が1人になる。

 

 

 

子どもを持つようになったら変わるのかな―と予感しているけど、今の私は、罰かヒーローなら、「ヒーロー」が欲しいんだ。