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ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

織田信長は自身の「成功体験」を否定した:「体験」をどう読み解くかが大事

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私にも、「成功体験」って言葉が好きな時期がありました。

積極的に「成功体験」集めを行っていた時期がありました。

それによってかけがえのない物を得ましたが、今はがむしゃらに「成功体験」を追いかけることはなくなりました。

 

 

行動のほとんどは「習慣」

私が「成功体験」とそれに対する「失敗体験」にこだわったのは、この2つが人の「お人柄」に強く作用するからです。

 

 

人の行動や反応のほとんどは習慣化されています。

 

・朝、起きたらまず何をする?

・仕事場や教室に着いたらまず何をする?

・定食をいただくとき、どれをどのくらいずつ食べる?

・新しいことに取り掛かるのに抵抗を感じる?

・「人前に立つ」ことにかんしてどう思う? 

 

それぞれ、体調の良い日・悪い日、平日か休日かなどの場合分けが必要かもしれません。また、無意識で行っているが故に明文化できないかもしれません。

でも、こういった頻繁に起こる出来事には「お決まりのパターン」があり、習慣化されています。

 

 

もちろん、「お決まりのパターン」がなく選択の必要があるものもあります。

 

・ランチに何を食べるか決めたり

・お店で購入する物を選んだり

・お詫びの文面の言葉を選んだり

 

こういったさまざまな「判断」を行っています。それは意識に登りやすいため数え上げやすいですが、行動に占める量的な割合でいえば「習慣」がその大多数を占めます。

 

 

習慣は「成功体験」の模倣と「失敗体験」の逆

しかしそんな「習慣」も、紐解けば無数の「判断の積み重ねです。

 

その「判断」と「判断に従って行動した結果どういう感情が生まれたか」を積み重ねることによって、その人専用にカスタマイズされた判断傾向が「習慣」だと思います。

 

  

テンションを上げて臨んだ日はあらぬ言葉が口から滑りがちでそんな自分が嫌な人は、テンションを上げるという選択肢を取らなくなるでしょう。

 

はっきり意見を述べたら認められ嬉しかったという経験があれば、またはっきり意見を述べるようと思うようになり、じきにそれは習慣化するでしょう。

 

 

体験のうち、わりかし良い結果を「成功体験」と呼び、わりかしダメな結果を「失敗体験」と呼んだりしますが、私たちは「失敗した選択」を避け「成功した選択」を模倣するようにして生きているように思います。

 

 

「成功体験」と「失敗体験」をどう解釈してる? 

その「成功体験」と「失敗体験」は主観的なものです。

 

テストで98点を取って、これだけ得点できたと「成功体験」にする人もいれば、

テストで98点を取って、これだけ得点できなかったと「失敗体験」にする人もいるでしょう。

 

 

また、「成功体験」のどの部分を切り取るのかというところにも違いは表れます。

 

大学のサークルの歴史からいうと新しい「SNSを使った集客」をして、集客数を格段にupさせた

 

という「成功体験」から、

 

これからもSNSを使った集客」をしよう! と思うのか

これからも「既存のやり方にとらわれない方法を模索」しよう! と思うのか

 

によって、その人の次の行動は変わります。

 

 

そういうことを思ったときに、自分を狙った方向へ変化させることに貪欲な私は、「どんな体験か」よりも、一つ一つの体験を「どう解釈しどう位置付けするかが大切だ」と思うようになりました。

 

 

織田信長は 自身の「成功体験」を否定した

そう思うようになったキッカケのひとつが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』です。織田信長について記述されていたこの一コマ。

 

かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。

坂の上の雲〈4〉 (文春文庫)より

 

織田信長は、自身の「成功体験」を盲目的に繰り返したりはしなかった。

「成功したときの行動」と「成功したときの周りの環境」を考えて、客観的に捉え直すことを行っています。

 

こんな風に、「成功したときに取っていた行動」と「成功要因」がまったく異なるということは、決断を迫られる場面ではよくあることなのだと思います。