ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

四半世紀も生きれば、諦めることもでてくる。

 

私は、公共料金を支払うことが苦手だ。

常々母親から「やればできること」と言われるし、自分でもそう思うんだけど、どうしても期限内に公共料金を支払うことができない。正確には、できない確率をゼロにすることができない。

供給を止められるまでには至らないけど、催促の葉書をもらうことはたびたび。「お金がないから」「時間がないから」とかではなく、ほんとうになぜかできない。なぜか、公共料金の支払いが「とてもむずかしいこと」に思われる。

 

そんな話を母親としていて、この前ふと思った。

私は大学生から一人暮らしをはじめたから、一人暮らし歴はもう長い。それなのにまだ「公共料金の支払い」に慣れないのは、「やればできる」と思っているからじゃないかって。

 

 

 

 


こんなに自堕落な私だけど、熱中していることに関しては完璧主義者な一面もある。

 

「やればできるはできない子」

 

やる気スイッチが入った物事に対しては、そう言って「改善策なき再発」を自分に許さなかったりする。


たとえば、私は「単純作業に飽きやすくミスが出やすい」。だから、何かミスが出るたび、それを集中度が最低レベルのときでも滞りもなく行えるフローをつくり習慣化する。ちょっとずつ改善を繰り返す。


たとえば誤字脱字チェックで取りこぼしが出たなら、その理由は1文字1文字見るというよりサーッと流してしまっている視線のスピードにあると分析して、1文字1文字に集中できるようペンで文をなぞりながらチェックするっていう習慣を取り入れた。


「気を付ける」「ていねいにやる」みたいな心掛けはアテにはならない。気分屋でやる気メーターの極限値を行き来するような私が、「これは、やる気があればできる! だからだいじょうぶ!」なんて言ったって説得力がなさすぎる。

 

 

 

 

四半世紀生きて、こんなふうに自分のコントロール方法をちょっとずつ学んできた。それなのに、「公共料金の支払い」については思い切り取りこぼしていた。

 

それは、失敗体験が積み重なりすぎていて、向き合うことすら避けていたからのような気がするし、「普通の人が普通にやってることができない」ってことを認めるのが嫌だったからのような気がする。

 

自分の弱い面を「そんなもんだ」と思うことが難しかったんだと思う。

どんなものに対しても、まだ伸びるかもしれないと心のどこかで自分に期待していたんだと。

 

 

でも、四半世紀も生きれば、そうじゃないこともあるって何となく分かってきた。

慣れからくる能力向上を愚直に待つのではなく、「そんなもんだ」と受け入れた上で改善策を考えるっていうことができるようにもなってきた。

 

「人は変わる」それが四半世紀とちょっとを生きた私の教訓。そろそろ「公共料金の支払い」に本腰を入れよう。


 

可愛いスタンプを送ってる時のわたしの顔が可愛くない問題

 

LINEのスタンプの使い方から、意外な一面が見えることがある。

硬派に見える人がかわいい動物のスタンプを使ったり、
ご年配の方がいまどきのアニメのスタンプを使ったり、
かっこいい男の子が美少女キャラのあざといスタンプを使ったり。

しかもそれが、お金を掛けずに使えるスタンプではなく、購入したスタンプだったりすると、この人このスタンプ買うって決めたのか―、いやプレゼントされたって線もあるなって想像して楽しんだりする。

 

ちなみに、私がよく使うのは、ちょっぴりゆるふわなスタンプ。んで、大きなハートが付いていて「ぎゅ」って台詞の入ったスタンプや、キャラがキャラにマッハで近づいていて「ハグっ!」って書かれたスタンプや、「るんるん」ってキャラが踊ってるスタンプを使う。

 

使う……その時の自分の顔が真顔なことに、ある日気付いた。

 

その日以来の統計だけど、私は6割くらいの確立で、真顔でテンションの高いスタンプを押している。反対に、表情を大きく動かしながらは1割位。ちょっとニコニコしながらが残りの3割。

(気付く前はもっと真顔率が高かったかもね)

 

 

 

このことを考えていて、「友達と分かれる女子高生」を思い出した。

 

電車に乗ってたり道を歩いていたりして、時折女子高生のグループに出くわす。そして、「ばいばーい!」ってしてる場面を見ることがある。

 

この一連を眺めて、ときどき「女子高生も大変だなー」なんて思う。

 

グループでいる間は、一般社会人と比べればオーバー気味に表情を動かしさまざまな声色を使ってキラキラ会話していた女子高生が、友達と別れた瞬間に真顔になり存在感が薄れる……ってことがあるから。

 

人とお喋りしているときと、その後一人になったときでテンションが変わるのは分かる。というか当たり前だと思う。

でも、その変わり身があまりに速すぎたりすると、「この子、合わせてたのかな」と思う。「おつかれっ」って声を掛けたくなっちゃう。変わり身は「ふーっ」って音無きため息と同時だと思うんだ。一気に緊張を解くあの感じ。

 

本当にその空気に浸っていたなら、きっと変化はゆっくりやってくる。

 

 

 

この女子高生の変わり身の速さと、私が真顔でかわいいスタンプを送るのには、共通性があるような気がする。というかむしろ積極的に同意する。私が真顔でテンション高いスタンプを送るときは、合わせいる。

 

だって、私はLINEを使うとき2つの使い方をする。

一つは、友達とやっている合唱団やアンサンブルの運営について話すなど、ガッツリ「話し合う」場合。

もう一つは、近況報告ふくめ、ゆるふわな会話をする場合。

 

んで、スタンプを使うのってゆるふわな会話のときで、そういうときってLINEだけをしているのではなく、何かをしながらの場合が多い。お菓子食べながらだったり、twitterをしながらだったり、本を読みながらだったり、音楽を聞きながらだったり。何かとLINEを切り替えながら使う。お返事する瞬間だけLINEに自分を切り替える。

 

私の場合、その意識の対応速度に表情が追いつかないんだと思う。

 

だから、真顔でテンション高いスタンプを送るなんてことが起きちゃうんだろうな。

 

 

痴漢報道は嫌いだ。罰かヒーローなら、私は「ヒーロー」が欲しい。

 

痴漢系の記事を定期的に目にする。

私は、そのほとんどが嫌いだ。

 

女性に、痴漢にあったらこう対応するとちゃんと男性が罪に問われますよっていう記事も、痴漢冤罪を恐れた男性が線路に逃げたという記事もイヤだ。

 

そういった記事や報道の根底には「罪と罰」がある。

「痴漢されたら、被害者は加害者を罪に問うべきだ。加害者は罪を受けるべきだ」という文脈が必ずあるような気がして。

 

それがなんかイヤだ。

そんなふうに強くなれない私のちっぽけさとワガママさに気付くから……。

 

 

 

 

まず、私は女だ。

そして、私は痴漢被害者だ。

 

 


でも、私は「報いを受けろ!」って思ったことはない。

痴漢の初体験はたしか小学校の頃で、原体験が幼すぎたからということもあるのかもしれない。


私は、「やめて!」と反射的に思うだけ。

私のゴールは、痴漢が辞められることその1点のみ。

加害者が私に触ることが止まればなんでもいい。

その後の加害者のことなんて知らない。

トーカー要素がないなら、私はそれでいい。

 

 

 

でも、世の中の特に報道やネット上の論争は、未来を見ている。

痴漢にあった瞬間どうやって痴漢をやめさせるかではなく、どうやってちゃんと加害者を罪に問い罰を与えるかを論じている。

 

 

その「罰」は未来に影響を与えうる。

痴漢でいうなら、痴漢が罪に問われ加害者が裁かれることが、次の痴漢加害者を生まない抑止力になる可能性がある。そうすると社会はほんの少し安全になるかもしれない。

 

世の中は 未来の安全を考えている。

 

 

それなのに、半ば反射的にイヤだと感じる私はちっぽけでワガママだなーと思う。

私は、「今の私」しか考えていないから。

 

 


ちなみに、私はいつも痴漢撃退に第三者を巻き込んでしまう。

加害者と関わりたくないという嫌悪感からなのか、加害者に対して「反応」すること全てがイヤだ。

でも、何も対応せず放っておくのはもっとムリ。

だから、たとえば満員電車で痴漢されたら近くの人の服を引っ張る。助けてもらう。

そして、助けてもらったら、助けてくれた人に感謝を伝えて終わり。

 

この、「終わりが感謝」というのが私にとって重要で。こうなったときは、あまり後に引きずらない。

すっごく自分勝手な振る舞いだし世界の見方だけど、こうするとその時の私の世界には、イヤな人が1人とヒーロー人が1人になる。

 

 

 

子どもを持つようになったら変わるのかな―と予感しているけど、今の私は、罰かヒーローなら、「ヒーロー」が欲しいんだ。

 

私、最近かわいくなった。……生活に余裕があれば人はかわいくなるらしい。

 

私、最近かわいくなった。

 

 

肌の調子がとりわけ良いというわけでもない。

お化粧の技術が上達したということでもない。

体重を測ればそんなに減量できているわけでもない。

 

 

それなのに、自分でも不思議なんだけど、私、最近かわいくなったのです。当社比120%くらい。

 

 

あれれ? もしや? と思い始めたのは、活動柄、自分の写真や動画を見る機会があるのですが、その時。

自分を見るのが嫌じゃなくなったという変化でした。自分の印象がなんだかスッキリと感じられたのです。

 

 

身近な方々にも、

「痩せた?」って言われたり ※注、体重はどちらかというと増えた

「いいカラダしてるね」って言われたり ※注、仲の良いお姉さまに言われました。セクハラじゃないよ

「最近、服装変えた? 似合ってるね」って言われたり ※注、変えてません。去年も着てた服

 

私のかわいさupは私一人の思い込みではないようです。

 

 

 

しかし、既に書いたように、決して全てのコンディションがいいわけではありません。

 

体重はどちらかというと増えたし、

肌は連続ニキビでつらたんだし、

髪だってお手入れから時間が空いてボサボサ度高め。

お化粧は……1ヶ月前よりすっぴんの日が増えました。

 

 

「じゃあ、何が変わったんだろう? 一言で言いたいな」ってウンウン考えてみると、それは生活の余裕なんじゃないかなって。

 

「あ、いま姿勢悪い」って思うことが増えた。

椅子に座る時に上体を起こしたまま座ることを気を付けてる。

歩く時は歩幅が大きくならないよう意識してる。

片手間にではなく人と正面向いて話す時間が増えて、表情を動かす機会が増えた。

 

そんな一つ一つの積み重ねで身のこなしが変わったこと。それが私が最近かわいくなった理由な気がします。

 

 

 

そして、この姿勢や表情を含めた「身のこなし」というキーワードは、どうやら私の「かわいい」と強く結びついているらしい。

 

私が、この人かわいいな〜、この人きれいだな〜と思う人ってだいたい身のこなしが洗練された人なのです。

 

お顔立ちがはっきりしていて髪型をバッチリ決めているけど巻き肩&猫背の人と、美人というわけではないし髪も無造作ヘアーだけどスッと背筋が伸びた人がいたなら、私は後者に憧れます。私の美的感覚は「身のこなし」に結びついているようなのです。

 

 

ということは、私が私の理想の「かわいい」に近づくためには、ダイエットやヘアーアレンジに凝るよりも、日々の動作を磨けばよさそう。

 

お菓子を我慢しなくたってお化粧品に高いお金を掛けなくたって、かわいいは作れる!

 

これはもう、嬉しすぎる発見です。

……もう20代も後半だから「かわいい」より「美しい」を目指した方がいいんだろうか

 

 

「私、いま、なんでもできる気がする!」って口にしてるワケ

 

「私、いま、なんでもできる気がする!」って口にするのがマイブームです。

 

はじまりは「私、いま、エネルギーに満ちてて元気だ!」って思ったからという順当すぎるきっかけですが、これが1週間も続くマイブームになっているのは、そう口にすることで感動を追体験しているからかも。

 

 

「私、いま、なんでもできる気がする!」って言っていると、「例えば何したい?」と具体例を聞かれたりする。

 

 

はじめの数人からは「量」を問われた。

「何曲くらい歌いたいの?」「どのくらいの時間歌ってたいの?」などと。

そのとき、少し考えてから適当に「10曲くらい!」とか「10時間くらい!」と答えた。

でも、自分が口にした言葉ながらそこにキラキラ感はなかった。

 

 

4人目に、「質」を問われた。

「どういう曲歌いたいの?」と。

スッと答えが出た。

「混4で音数が多い曲の初見大会したい!(意訳:難しい曲にガッツリ取り組みたい)」

そう答えて自分で瞳孔が開いた気がした。

これ! これだ! 私がやりたいのは! ってキラキラ感があった。

 

 

いままで自分で自分に間違った連想を押し付けていたことに気が付いた。

いままで「エネルギーに満ちている→とにかくたくさんやろう!」って「量」の思考回路が働いていた。でも満足しないことが多々あった。エネルギーを上手く発散できていない感じを覚えることがあって、自分で自分に戸惑ったりしていた。

 

その謎が晴れて感動してる。 

エネルギーは「量」でなく「質」にぶつけられるべきものだったんだなって。

 

熱が「歌」に向いたならそれは、10時間歌っていたいではなくて、「難しい曲にガッツリ取り組みたい」だし、

熱が「書くこと」に向いたなら、ブログを5記事書きたいではなくて、「構成をしっかり練った記事を書きたい」だし、

熱が「読むこと」に向いたなら、読みやすい本をたくさん読みたいではなくて、「自分から遠く感じられるような本を解読するようにして読みたい」だなって。

 

 

私はこれまで「なんでもできる気がする!」という言葉から「量」的な連想しておきながら、本心が求めていたのは「質」的ものだったんだって、このときはじめて気が付いた。


その感動を引きずっていて、引きずりたくて、それから数日経ったのにまだ私は「私、いま、なんでもできる気がする!」って言い続けてる。

 

筋肉痛が好き。いつも思いがけないことが起こるから。

 

この前、ボルダリングやってみました。

ボルダリングの最中から手がかじかんで足がプルプルして。次の日は当たり前のように見事に筋肉痛。

 

 

 

でも、私は筋肉痛好き。

いつも思いがけないことが起こるから。

 

ここ筋肉痛になりそうだなーって思ったところより、ここ使ってたの!? とか、ここに筋肉あったのね!? って筋肉の方が重症だったりする。

 

 

今回だったら、意外と手足の筋肉痛より、背中の方が痛かったり。

 

 

 

それから、珍しく筋肉が「痛い」というかたちで主張してくれるから、日常動作でどんな筋肉が使われてるか分かる。

 

 

たとえば、椅子に座るときに腕の後ろが痛い。

 

椅子から立ち上がるときは、腕の後ろも背中も痛い。

 

PCにイヤホン差す時に脇の下あたりに痛みが走ったりする。

 

 

「痛い! 痛い!」と笑いながら、日常の動作を特別に感じることができる。

 

 

そんなこんなで、私は筋肉痛が好きです。

 

 

いつも主張せずに静かに働いてくれていて、そのありがたみに気付きもしないこと、そんなことは自分の意識と自分の身体だけではなくて、いろんなところで起こってるんだろうなと思い返すきっかけにもなるのです。

 

それ以来、私は書き写す作業を「写経」と呼ぶ。

小説を読んで気に入ったフレーズがあったら付箋を貼る。

WEB記事を読んでいいフレーズがあったらスクショする。

それを後日、手帳に書き写す。

 

歌に取り組むときは、歌詞を紙に書く。

 

私は、大学生の頃から言葉をノートに書き写す癖がある。

 

 


必要に駆られた気がしてはじめた行動だった。

昔から文章を書くことが多かったから、気に入った言い回しや興味を刺激する情報があると「いつか生かしたい」という思いで書き残したのがはじまりだった。資料集をつくるみたいにして気に入ったフレーズをノートに書き写した。出典の明記をしたくなるだろうからと、一字一句違わずに。

 

歌詞を書いていたのも、あるところパフォーマンスだったんっだと思う。仲間や先生に対して、努力はしていると示したかったというのが一番の理由だった。

 

 

 

しかし、浅い動機で始めた行動でも積み重ねれば一段深いところにたどり着けるらしい。

 


ノートに書き残すことをはじめて6年ほどが経つ。

途中、嫌になって投げ出したいこともあった。

 

読み返すことだってほとんどない!

何のためになるんだ!

 

って思ってやめたくなるときもあった。

 


でも人の目に過敏な私は、ノートに書き残すってことが私の形容詞みたいになっているように思えて辞められなかった。ただ義務感から続けていたような時期が2年くらいあった。

 

 

 

そんな時、一度本番に乗せていただいた合唱団の、ご年配の指揮者の先生がこんなことをおっしゃった。

 

お前ら、歌詞の漢字、浮かんでるか?

 

楽譜は音符にあわせて書かれるから、歌詞はひらがな書きされる。

この先生は、楽譜の余白に、原文ママの歌詞を書けと言った。

 

俺がいつも言ってるのにやってないってことは、「歌詞を書き写す」ってことに意味を感じてないんだろ。

 

確かに、楽譜の隅に歌詞が書いてあるってことだけで、そんなに歌は変わらない。

むしろ、時間を取ってその歌詞と向き合うってことそれ自体が大事なんだ。

 

ほら、俺は今だって書いている。

これは写経なんだ。

 

こんな口調ではなかったけれど、「一字一句違わずに書き写す」その行為が歌詞の理解を深めるのに大切だとおっしゃった。

 

 

 

私の2年はこの言葉に救われた。

言葉を書き写す時間は未来への投資ではなく、その言葉との出会いを深めることなんだ。

 

 

それ以来、私は書き写す作業を「写経」と呼ぶ。

 

 


書き写すって行為自体がていねいになると、「今の自分と向き合う」という意味合いも帯びるようになった。

 

  

写経というのは、「右と同じように書き写せ」ということだ。

いつどんなときでもできそうな簡単なお題。なのに、「全く同じ」を行うのが難しい時がある。眠い時、考え事がこびりついているとき、興奮しているとき。誤字をすることもある。写し間違いをすることもある。

 

正解のある単純作業を正確にこなすこともできないってことを知った。脳にはムラがある。脳って頼りない。

 

 

加えて、脳って身勝手だ。

気を付けていても、原文が「分かる」のところを「わかる」と書くことがあった。「はずであった」を「はずだった」と書いていたこともあった。

 

それは、書いてあることを「そのまま」ではなくて、自分流に置き換えて理解しているってことだ。そりゃあ、言った/言わないとか、聞き間違いとかっていうコミュニケーションエラーも起こるわ。

 

……写経しない人が気付けない小さな微修正を私は重ねている。

その小さな気付きは私に感動を与えてくれる。

 


そうして自分の状態を自分にフィードバックするために、私は写経をするのかもしれない。