ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

「叱る」には、お相手の未来を信じる熱意が含まれている

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私はすぐに「凄いな! 私もああなりたい!」って思ってしまいます。

そんな尊敬と憧れの人物像の1つが「然るべきところでバシッと叱れる人」。

だけど私はそこからかなり遠いところにいるみたいです。

 

 

コミュニケーションの断絶

「怒ること・叱ること」と「意見を伝えること」の違いは「コミュニケーションの断絶が有るか無いか」だと思います。

 

意味ではなく感情についての断絶です。

 

 

お話における「感情」とは、表層的なところでいえば喋るスピード、声の高さや大きさ、声色、間の具合といったところです。

 

共感を前提とした上で「意見を伝える」場合には、これらのお相手の要素を引き継いで自分の言葉を紡ぐということが自然と行われます。

「私はあなたに共感していますよ、好意を持っていますよ」ということが伝わります。

お相手が自分と違うことを承知した上でその違いを尊重している状態、「異文化理解」ができているからこそ、自然にお相手のいろいろな要素を反映してしまうものなのです。

 

反対に、それらが破られることを「コミュニケーションの断絶」と私は呼んでいます。

お相手のお話するスピードとまったく違うスピードで話し始めるというように、お相手の要素を引き継がない状態です。

「怒る・叱るとき」の特徴で、「あなたはそう思ってるんだろうけど、私は違うことを思っているよ」という「違い」を伝えるのに効果的です。

過激な言い方をすれば、お相手を「異文化」と認めその違いを尊重するのではなく、自分の文化を強要することと言い換えることもできるかもしれません。そして、お相手に「変化してほしいな」という理想を抱いているということでもあると思います。

 

 

相手の等身大を見ているのが「伝える」で、相手の等身大を否定して理想をぶつけるのが「怒る・叱る」といえるように思います。

 

 

昔は、知らなかったから怖くなかった

昔の私はその「コミュニケーションの断絶」という概念を知らずそれを当たり前に使っていました。「怒る」も「叱る」もためらわずに行っていました。もっといえば、キレるように怒りだしてしまうタイプでした。

 

それが今では怒ることも叱ることもできなくなりました。

 

きっかけは、あるとき「コミュニケーションの断絶」は私にとって生理的に無理なものだと気づいてしまったことです。

そして、「コミュニケーションの断絶」を受けることは多くの生物が嫌うことでもあるでしょう。危機察知能力が働くからです。

 

それから、なるべく「コミュニケーションの原則」に則った行動をするよう心がけました。まずは形からです。

しかし、行動を換えれば習慣は変わり、習慣が変われば人となりも変わるもので、数年を経る頃にはすべてが「伝える」に置き換わりました。

 

 

でも、「コミュニケーションの断絶」は必要悪だから

その変化は嬉しいことなんですが、最近気づいたことがあります。

 

私にとって「コミュニケーションの断絶」は、「使わないもの」ではなく「使えないもの」なんだなーということです。パツパツのときに漏れでちゃうことはあっても、意図的に「コミュニケーションの断絶」を扱うことはできないのです。

 

「キレる人」ではなくなったにしろ「然るべきところでバシッと叱れるカッコイイ人」には程遠いのです。

 

 

思い返してみれば、四半世紀生きてきて多分一度も「意図的かつ効果的に叱ったこと」はありません。試した経験値もゼロです。「叱る」機会の増える年齢に差し掛かっているというのに。

 

「コミュニケーションの断絶」は必要悪みたいなもので、TPOによっては必要とされるものだと思います。

また、「教育」のニュアンスを帯びる場などでは、今のお相手ではなく少し先のお相手を信じてぶつかる必要もあるでしょう。そんなときには「叱る」には純度の高い熱意が含まれるでしょう。

 

ーーそういう「熱意」が含まれているから、私は「然るべきところでバシッと叱れる大人」をカッコイイと思い憧れるのかもしれません。