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ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

シンプル化したい欲の強すぎる私と、複雑を愛でる感覚型天才との埋まらないズレ

 

身近にすごい人がいる。

好奇心の強い私には幸せな環境だ。

 

でも、すごい人が近すぎる距離にいると、怯えてしまうことがある。

 

「論理型」に経験値全振りしちゃった私

人には天才型と努力型、もしくは感性型と論理型と呼ばれるような2つのタイプがある。

もちろん、性別でさえきれいに2つに分けることができないように、完成型か論理型かも明快に分けられるものではない。でも、大まかに大別することはできる。

 

それに当てはめるなら、私は極端に論理型だ。

論理の物事をシンプルにするところが好きで、それにエネルギーを割いて生きてきた。

 

たとえば、「音楽は言葉で割り切れるものではない」といわれるけど、私は音楽を言い切る試みを続けている。言ってみて、違えばまた新しい定義を探せばいい。そうして音楽に関してシンプルに共有できるものを増やして、音楽をプロのものからみんなのものにしたい。そうすればプロは自動的にもっと高みを開拓することになる。そうなった後の世界で音楽をしてみたい。

 

そんな夢を見つめているから、私は努めて論理型になろうとし、論理型度を高め、極端な論理型になった。

 

複雑をそのまま愛でる感覚型と、シンプル化を試みる論理型

「感覚型」と「論理型」の違いは、経験を積み重ねるときに言語の力をどれだけ頼るかによる。

 

たとえば、「気合を入れて歌ったらいい歌が歌えた」ということにはいろんな情報が付属する。

身体のポジションや、どこをどれだけ緊張させるかや、何をイメージしたかなど。「気合を入れて歌った」と「いい歌が歌えた」はいろんな要素につながれている。

 

その雑多な情報をそのまま受け取るのが「感覚型」。

雑多な情報を言葉に置き換えるなどシンプルにしてみようとするのが「論理型」。

 

私はそう大別しています。

 

点で語ると感覚型に見えて、線で語ると論理型に見える

一方、「感覚型」に見える人と「論理型」に見える人は点で語るか線で語るかによる。

 

「私、音量をキープするように歌ったんだよ」と「今」だけを語ると感覚型に見える。

「私、今、音量をキープするように歌った。私も昔は音量キープできなかったんだけど、録音した波形を視て練習して、音量キープできるようになったの」と「過程」をあわせて語ると論理型に見える。

 

 

世の中は感覚型の方が多いような

考え方は「論理型」でも、人に伝えるとき「感覚型」に見える伝え方をする人は、他者から見れば「感覚型」に見える。

とすると、潜在的に感覚型と論理型が1対1だとしても、私の見る世の中は「感覚型」の方が多いってことになる。

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シンプル化したい欲の強すぎる私と感覚型天才の埋まらないズレ

ここで強引に、冒頭の「すごい人が近すぎる距離にいると怯えてしまうことがある」ということに戻るのだが、私は感覚型に見えるすごい人に対して埋まらないズレを感じることがある。

 

感覚型でも普通の人なら、彼らが「点」しか語らなくてもシンプル化にチャレンジすることができる。

「キラキラってイメージで歌ったらいい感じに歌えたの!」と言われたら、「キラキラってイメージを持ったことによって、口の中の空間が平べったくなったり、息のスピードが速くなったりしたからなのかな」と間を推測することができる。

 

でも、すごい人のシンプル化する試みは難易度が高すぎる。

私の理解、私の想定を超えるから、私は「この人すごい!」と思うのだから。

 

 

私は知りたいって欲求が強い人間だ。知的好奇心に突き動かされるようにして生きている。だから、「論理型のすごい人」とは相性がいい一方、「感覚型のすごい人」にはフラストレーションが溜まってしまう。さながら、人参をぶら下げられた馬のように。