ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

ヨガの先生はなんで「お水を飲んでいきましょう」ってう言うんだろう

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ヨガをやっています。

今はチェーン店に通っているし、過去には数度単発のレッスンを受けたこともあり、重数名の方のレッスンを受けてきました。

 

彼女たちに共通して、気になることが……その喋り方。

 

「ぐーっと伸ばしていきましょう」

「まずは、あぐら座になっていきましょう」

「今度は、立っていきましょう」

「落ち着いたら、身体を起こしていきましょう」

「ちょっとここで、水を取っていきましょう」

 

 

「〜していきましょう」の多用です。

 

「伸ばしていきましょう」は納得感のある使い方ですが、「座っていきましょう」は「座りましょう」、「立っていきましょう」は「立ちましょう」、「起こしていきましょう」は「身体を起こしましょう」ではダメなの? と思ってしまうし、「水を取っていきましょう」はなんだかくすぐったい感じさえします。

 

ここまで「〜していきましょう」が多用されるのは、業界用語みたいになっているということだと思うのです。

 

ある環境の中で何かの言い方が流行って定着するのは、その言い方に何かその人たちが大切にしたいニュアンスが含まれているからだと思います。

たとえば、若者言葉(というかネット用語?)の「◯◯たん」。もともとは、名前の終わりに付けて可愛らしさを表していたものを、「ツライ」にあわせて「つらたん」と言ったりします。これは多分、「たん」を付けると印象が柔らかくなって「ツライ」って言いやすくなるからなんじゃないかなと思っています。

軽く「ツライ」を表現したいという、私たちの隠れた需要にヒットしたから広まったのかなと。

 

「〜していきましょう」もこれと同じように、ヨガを極めた方々の何かを象徴しているんじゃないかなと思うんです。

 

ヨガ継続歴1年に満たない未熟者なりに思うヨガの特徴は身体の使い方で、「力まないこと・固まらないこと・止まらないこと」を重要視していることです。

 

手を伸ばすにしても、手を遠くに持っていこうとする力を感じると同時に、手を引き寄せる力を感じましょうとおっしゃいます。

また、どの動きも必ず呼吸をしながらですから、一歩離れたところから見ると1つのポーズで止まっているように見えて、その実身体は少しも止まってはいません。

毎瞬身体のあり方を定め直しているような……ヨガはそういう「変化し続けてる感」を大切にしているように思います。

 

それが「〜していきましょう」という言葉のニュアンスと合致したのかなと。


「立ちましょう」ではなく「立っていきましょう」と言う。

その背景には「立つ」という日常の動作にさえ、なおざりにではなく丁寧に行いたいという気持ちが込められているのかもしれません。

 

「美しさ」にこだわる日本人には「儀式」が必要だった:日本のいちばん長い日

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元旦、『日本のいちばん長い日』を見ました。

終戦の日、1945年の8月15日の「玉音放送」までの丸一日を描いた作品。

一昨年リメイクもされましたが、1967年に公開された白黒映画の方を。

 

日本は他に例を見ない「負け知らずの国」だった

第二次世界大戦は日本が初めて経験する「敗戦」です。

 

当時日本は、外国との戦いに破れたことがない稀有な国でした。

 

「戦後」さえも実感したことのない現代の若者の私は、戦争に対して生理的嫌悪感があります。しかし、当時の日本は国民全体として戦争歓迎の風潮があったそうです。(昨年、平和祈念展示資料館に伺った時、職員の方と語り部の方がおっしゃっていました)

 

戦争をすれば勝って生活が潤う。戦争はそんなものだと、信じるとかではなく当たり前に思っていたそうです

 

美しい負け方は知っていても「賢い負け方」は知らない日本

日本は平和な国でした。日本人同士で戦うことはありましたが、「そんなことをしている間に他所に攻められて滅亡してしまう」というような状況ではありません。

 

だから「潔く死ぬ」という選択が生まれたといえるかもしれません。

一つの共同体の中でなら、「自分が責任を取って死ぬから、他の仲間は見逃してください」で幕を引くことができるからです。「滅亡」という感覚に乏しいために、負け方は美しく洗練されていったのかもしれません。

 

 

その象徴が第二次世界大戦の負け方の下手さでしょう。

第二次世界大戦は、欧米諸国が日本の戦況に立たされたならもっと早くに終戦へ動きはじめていたといわれています。賢い負け方をするからです。

 

「賢い負け方」へシフトするには「儀式」が必要だった

『日本のいちばん長い日』の大きなストーリーは、遅ればせながら「賢い負け方ルート」を歩み始めた首脳陣と、「美しい負け方ルート」のままに終わった青年将校たちのぶつかりです。

 

なぜ、年配者である首脳陣が変化することができ、若者である青年将校が変化することができなかったのか。その違いは年齢や立場・考えの深さ・責任の重さなどにあるのではなく、「自分の変化」を美学化できたかどうかにあるように思います。

 

その違いを生んだのは「天皇陛下のお気持ちを受けた」という体験の有無なのではないかと思います。

 

天皇陛下のお気持ちを受けるという「儀式」

首脳陣は直接に天皇陛下のお気持ちを受けました。

天皇陛下ご自身が「このままでは我が民族は滅亡する」と現状を明言化され、その上で「私にできることならなんでもする。直接足を運ぶこともする」と「負け」の向こうのご自身のネクストアクションまで明確に示されたのです。


これは、キリスト教の「洗礼」にも匹敵する「儀式」だったのではないでしょうか。

 

天皇陛下は、日本を取り巻く空気から誰もが薄々感じつつも直視してこなかったことを明言し、その先にある苦痛を伴いそうな未体験の行動を率先して行うと明示なさったことは、人情を大切にする者にとっては凄まじい体験だったでしょう。

 

 「儀式」から取り残されてしまった青年将校

反対に、青年将校にはそれほどの「儀式」はやってきませんでした。

首脳陣が方針転換を語ったでしょうが、彼らのそれは「天皇陛下のお言葉を受ける」という体験には及びません。「自分を信じた部下が大勢死んだ」「共に戦った仲間が死んだ」そんな思いを抱えて硬直している人たちを「賢い負け方ルート」に移すほどのエネルギーは持ち得なかったでしょう。

 

 

 

1945年版の『日本のいちばん長い日』は、史実を実直に描いているように思いました。登場人物の心境は「心の声」ではなく全て行動で描かれます。特にナレーションが多用される前半はドキュメンタリーを見ているような感覚にもなります。見る人によって、見るタイミングによっていろんな捉え方ができそうです。これに対し2015年版は違う描き方がなされているよう。そちらも見てみよう。

 

忙しさにくたびれた心を揺らした言葉:本の虫より

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今年は「忙しさ」と戦った1年でした。

 

以前の記事で、「忙しい」というのは心の状態だと書きましたが、その通り「忙しく」なってしまった1年で、常に何やってんだろうって割り切れない思いを抱えていました。

 

 

ーー年に100冊以上本を読む人のことを「本の虫」というそうです。

私は本の虫4年生。読書履歴に「忙しい」という心境と戦った痕跡が現れていました。

 

 

その中から、心に染みた言葉をいくつか。

 

 

2016年、忙しかった本の虫に染みた言葉

 『面倒だから、しよう/渡辺和子』

面倒だから、しよう

面倒だから、しよう

 

時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのですよ

 

高校から大学に上がって、学校のあり方が変わって一人暮らしにもなって、私は使える時間が増えたと思った。徹夜をしたり、やりたくないこと・やらなくてもいいことを削れば時間は作れると思っていた。でも、次第にやりたいこと・やるべきことだけでも時間は足りなくなった。

その壁にぶち当たって、「どうやって時間を作るか」ではなく「限られた時間、どんな風に過ごしたいか?」と時間への考え方が変化した、そのきっかけのひとつとなった言葉。

著者の渡辺和子さんは昨日お亡くなりになられました。最後まで教育者として過ごされたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 『諦める力/為末大

よく周囲との関係を断ち切れないと言いながら、自分がいないと日常が回らないと思うことで安心している人がいる。

 

自分の気持は自分ですら分からない。

「今、自分がやるべきことがいっぱいいっぱいで多少のムリをしないとこなせない」

そうして「自分しかできない」とか「自分に押し付けられてる」って思って、自分の置かれた環境を作った人を責めたくなることがある。そんなときに、「実は、忙しいこと=求められることと捉えて、そこに安心感を見出してはいないか?」と自分に問いかけるようになった言葉。

 

 

『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ/永田カビ』

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

タイトルと表紙が衝撃的ですが、内容は実直。 

傷つく事で何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり居場所がもらえると思っていた

忙しいことを免罪符みたいに使ってしまったな、それって美しくないよなと後悔した気持ちとシンクロ。「忙しい」って知ってもらうことで「余裕がない言動になっちゃうけど仕方ないよね!」って相手に察してほしくなったり、許されたいなって思いはじめたら、病みはじめのサインかもしれないって慎重になろうと思った言葉。

 

 

 

「忙しい」ってことは必要悪だと思っています。だから上手く付き合っていく方法を探さねばならないと模索を重ねた1年。ちょっとは成長したように思います。

 

世の中、結局ハウツーだよ

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結局、人の興味は情報と手段に向く。

私の行動を省みても、他者の反応を分析してみてもそんな風に思うこの頃。 

 

人はいつだって解決されたがっている 

人は、たくさんの「解決されたら快感だな」という何かを抱えて生きています。意識的に、無意識的に。

 

TVを見ていて気になる情報があればその場でググったりします。「気になる」を解決するために。

その場で検索はしなかったけど、ニュースアプリを開いた時に「あ、さっきTVでやってたやつだ。気になってたんだよなー」とクリックすることもあります。「気になる度」は低めですが、これも解決のための行動。

それから、ネットサーフィンをしていてなんとなくタイトルが気になったからクリックする場合もあります。これは無意識にあった「これが解決されたら快感だな」が刺激されたからかもしれません。「気になっている」って自覚がなかった場合だけど、やっぱり解決のための行動だと思います。

 

人はたくさんの「解決されないかな」をストックして生きているように思うのです。

そんな「解決されたがっている人」と「スマホ」の関係について考えてみました。

 

スマホから得る情報に「納得感」を重視する人は少なそう

私たちが情報を入手する手段はたくさんあります。

スマホの他に、タブレット・PC・TV・ラジオ・新聞・雑誌・書籍・詳しい人に聞く・講演会に参加するなどなど‥‥。

 

この中でのスマホの特徴は、一番身近であることと多機能を持つこと、そして即効性です。

TVを見ながら検索する。通勤時間でお気に入りのサイトをチェックする。お化粧室に立ったついでにSNSをチェックする。スマホは私たちの生活と「小さな解決」を強く結びつけています。

 

その反面、「大きな解決」には向きそうにありません。

大きな解決でカタルシスを得るには大きな納得感が必要です。そして、論理的な正解にたどり着けるかどうかと納得感は別物です。

 

お菓子を買うときなら「あー、これにしよー」で決められるけど、高価な買い物をするときは「あ、これいい!」と思っても違う選択肢を検討してその上で「やっぱりこれ」と選択する。結果は同じでもあえてそのプロセスを踏むのは、それが納得感のために必要だからです。

 

納得感は儀式みたいなものが必要です。手段や掛ける時間が普段と違うことが重要なのではないかと思います。

 

とすると、「小さな解決」のための手段であるスマホは、納得感を醸成するのにはあまり向いていない、そんな風に思うのです。

 

求められていることに当てていくなら「簡潔な」情報と手段

書き手はつい、大きいことや抽象的なことを書きたくなってしまいます。

まとめサイトSEO狙いのハウツーサイトが検索で上位に来て目にすることが多いからか「ハウツーは低俗、思想は高尚」みたいに思ってしまいそうなこともあるります。

 

でも、個人の思いを吐き出すためのブログならそれでいいけれど、読み手を意識して何かを作るならスマホは大きな解決ではなく小さな解決向きだと仮定して取り組んだ方がいいのかもしれません。読者が求めているものに当てにいくとしたら、内容も伝え方も質の高い情報のまとめやハウツーやノウハウを軸に構成するのがいいのかも。

 

 

一般的な表記を使うよう心掛けているのは、伝えたいことがあるから。

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「信じる」と「仮定する」ってすんごく似てる。

でもぜんぜん違う。

 

この前のブログ、締めはこうでした。

人は鏡だから。エネルギーもきっと伝染すると信じて。

 

この一文を打つとき、「仮定して。」とするか「信じて。」とするか迷いました。

私は「そうじゃないかもしれないけど、あえてそうだと思って行動してみよう」って言いたかったんです。

 

それは、「今日はこの服を着よう」程度の決定でした。だから、本心、「仮定する」を使いたいなと思いました。「信じる」は私の気持ちより重い言葉のように思えたのに対して「仮定する」は軽さがちょうどよかったから。

 

でも、結局「信じる」を使いました。

それは、「信じる」の方が一般性がある表現のように思ったからです。

 

 

「用語統一」は手段を自己主張させすぎないためにある

私、文章の編集の仕事をしています。

構成を整えたり、見出しを付けたり、文章を整えたりします。その中には「用語統一」もあります。

 

「わかる」を「分かる」に

「やって欲しい」を「やってほしい」に

「〜することが出来る」を「〜することができる」に

「訊く」を「聞く」に

「宜しくお願い致します」を「よろしくお願いいたします」に

 

このように表記をある決められたルールに統一することも業務のうち。

 

会話において同じ言葉を言ったとしても言い方によって印象が変わるように、文章も「漢字を使うか平仮名を使うか」だけで印象が変わります。

 

本日は、お招き頂きましてありがとうございました。

引き続きどうぞ宜しくお願い致します。

 

 

本日は、お招きいただきましてありがとうございました。

引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

この2つの文章は3つの単語の表記方法が違うだけですが、印象はずいぶん違います。

 

「用語統一」は、多くの人がなんとなく感じ取る「印象」にアプローチする手段だと私は捉えています。

 

 

用語統一は「正しさ」ではなく「自然さ」のためにある

ですから、私は「正しさ」ではなく「自然さ」のために「用語統一」を用います。

 

道を訊く
道を聞く

 

正しい方はどちらか? と聞かれれば「道を訊く」です。

しかし、どちらを使いますか? と聞かれれば「道を聞く」です。

 

「訊く」という字は日常よく見かはしません。読者は無意識にちょっとした引っ掛かりを覚えるかもしれません。それがいくつも重なれば読み進めるのを辛く感じてしまうかもしれません。

 

そんな引っかかりや違和感をなるべく生じさせず快適に読み進めてもらうために「用語統一」を使います。

それは「相手へのお気遣い」であるのと同時に、「個性化のため」でもあると思っています。

 

 

個性化ポイントを内容に絞るため

特に経験の少ない方に、「用語統一をする(/される)と没個性的でイヤ」という人もいます。

 

その文章が、分かってもらうことよりも感じてもらうことのほうが強いなら、用語で遊んだり緩急をつけたりするのも効果的だと思います。詩や小説やエッセイのような。

 

しかし、ビジネス文書や記事のような文章には多くの場合「伝えたい情報」があります。そうして印象に残したいものがはっきりしているなら、内容で個性化を図りたいなら、伝え方は一般的にした方が効果的だと思います。

 

お気に入りのアイテムだけで揃えたコーデイネートがかならずおしゃれになるとはいえないように、文章も何もかもを欲張りすぎると全体が整わなかったり、全体の印象がボヤケてしまったりするものだなと、この頃感じます。

 

 

エネルギーは伝染する。一流と超一流を分けるのは「エネルギーをどれだけ掛けるか」

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「エネルギー」って言葉が最近、頭の中にずっと漂っています。

 


以前とある講座で、クリエイティブ・ディレクター/CMプランナー/コピーライターの松尾卓也さんが、こんなことをおっしゃっていました。

「エネルギーをどれだけ掛けて相手と接するかで相手のパフォーマンスが変わる」

「相手にどれだけエネルギー掛けるかの違いが一流と超一流を分ける」

「人はエネルギーを掛けられるといいパフォーマンスをしたくなる」

 

講義を受ける側から講師へは、「拍手」や「聞き方」でエネルギー示すことができる。

招いたビジネスパートナーへは、リラックスできる環境を整えたり最大限のおもてなしとお気遣いをすることで、相手のパフォーマンスを高めることができる。

演技をする動物にだって演技したら「すぐ大きな声ではっきり感情を示して褒める」とそれはきっと伝わる。アメリカの動物プロダクションが日本では不可能といわれる「猫に演技させる」ことを実現していてそう思ったそう。

 

このお話がなんだか気になって、ずっと頭に引っ掛けているうちに、私のモチベーションアップやモチベーションキープと「エネルギーの大きさ」は密に関わっているんじゃないかって思ったんです。

 

 

 「合う環境」と「合わない環境」の境界線は何?

私は、「ここ私に合う環境だな」「ここ私には合わないな」って思うラインは何なのか、ずっと探しています。

 

試しに聞いてみた友達は、「やりたいことができるかどうか」って言っていました。
「自分が成長できるかどうか」「好きな人がいるかどうか」と教えてくれた友達もいます。

 

私、これ、全部経験者です。


「私、◯◯だからこの環境大切なんだよね」とか「私、◯◯だからこの環境合わないんだよね」って言ったことあります。

そうして、「これかも! ……やっぱ違った」となってしまいました。

 

 

「エネルギーを掛けてくれてるか」かも

そんな中、新たなこれかも! が「エネルギー」です。

とっても受動的な理由だなって我ながら自分を頼りなく思うんですが、もしかしたら私は、そこにいる人たちが私に対してたくさんエネルギーを掛けてくれる場所を大切に思い、そこにいる人たちがあまり私にエネルギーを掛けてくれない場所をあまり大切に思えないのかもしれません。

 

「だってそっちの方が比較的高いパフォーマンスが出る」ということを私は言語化できないまでも感じ取っていたように思います。

その場所に初めて指導に伺うときに駅までお迎えにいらしてくださるとすごく気持ちが乗るし、反対に指導にお迎えする方に対してもその方が指導内容以外のことに乱されることがないよう気を配ります。音楽の現場であれば、要らぬ音を立てないようボールペンやシャーペンを使わないということも、目立ってエネルギーを感じさせるものではありませんがそのひとつです。

 

そして、私にとって「自分が高いパフォーマンスを出せるかどうか」というのは大切な指標です。だから、「私にエネルギーを掛けてくれる人がいるところが、私にとって合う環境なんだろうな」と。

 

自分のパフォーマンスが他者に大きく左右されるなんてなんて受動的ななんだろうって思うけど、それをちゃんと言葉にして理解できたから、今度はそれを効果的に使ってみようと思います。

 

 

エネルギーもきっと伝染する

私は、「人は鏡」だと思っています。

人はどうあっても相手に影響されます。

不機嫌も笑顔も伝染します。たくさん情報開示してくれた人にはこちらも情報開示するハードルが下がるし、親切にしてくれた人には親切な対応を心掛けます。

 

人は鏡だから。エネルギーもきっと伝染すると信じて。

 

それホントに伝わってる?:その「伝えた」って実感、「ただ喋りきっただけ」かも

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「何回も言ってるのになんで分かってくれないんだろう」「私、言ったよね」「前にも伝えましたよね」というようなコミュニケーションエラーが起きたとき、つい感情的になってしまいます。

 

そうして感情的になってぶつかるのも少年・少女漫画的で好きなんですが、社会に出たらそうもいってられない場合が多い。

 

なので、場合分けして考えてみました。

 

「伝える」には4段階ある

「分かる」に段階があるように、

・頭で理解した

・意識すればそれを行える

・無意識にもそれを行える

・人に分かりやすく伝えることができる 

 

「伝える」にも段階があると思います。

1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)

2. 相手が伝えた内容を理解した(けどそれに魅力を感じておらず行動を起こさない)

3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした(けど継続するほど魅力的ではなかった)

4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた

 

そして、「4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた」ときだけが、誰に何の文句も言われず、コミュニケーションエラーも起きない「伝える」だと思います。

 

 

「分かりました」って空気を読んで取り敢えず言う人もいる

ちょっと具体化するために、こんな場合で見てみます。あえて4から1へと。

伝え手「このショートカットキーを使うと効率がいいから使ってね」

受け手「分かりました」

 

 

「4. 相手が伝えた内容に沿った行動を定着させた」

相手がそのショートカットキーを覚えて習慣的にそれを使うようになった場合。

 

「3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした(けど継続するほど魅力的ではなかった)」

伝えた直後はそのショートカットキーを使っていたが、徐々に使わなくなってしまった場合。

 

「2. 相手が伝えた内容を理解した(けどそれに魅力を感じておらず行動を起こさない)」

相手はそのショートカットキーの操作方法は理解したものの、行動を起こさなかった場合。

 

「1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)」

伝える側は伝えたと思っているものの、正確には伝わっていない場合。

 

相手はその場のノリで(もしくは空気を読んで)「分かりました」と言ったけど、実は右から左に抜けているということもあるでしょう。正直、私はプライベートではよくやってしまいます。

 

もしくは、伝え手の言い方が受け手には高度すぎるのかもしれません。伝え手は「commandプラスPで印刷できるよ」と言って伝えたと思っているけど、受け手はPC初心者で、伝え手が同時押しという意味で使った「プラス」を連続押しと理解したという場合なんかがそうでしょう。

伝え手は「伝えた」し、相手も「分かった」と言ってくれたのです。

受け手は「理解」したし、それを行動に起こしてもみたのです。

それぞれの主観では自分に否はないし、コミュニケーションエラーも感じません。でも、全然成り立っていないから支障をきたす。一番お互いにとって「言ったのに伝わらない」「伝え方が悪い」となってしまう状態かもしれません。

 

どちらにしろ、相手が理解したかどうかを確かめずに「喋った=伝えた」と捉えているということで一括りにしてみたのが、この「1. とにかく喋りきった(けど相手は理解していない)」状態です。

 

 

こうして場合分けしてみると、 私、コミュニケーションエラーを感じたときに見当違いの対策を取ってしまっている場合もたくさんあるようです。

私はコミュニケーションエラーを感知したときに「これってこういう意味のある作業なんだよ」って語りがちです。でも、相手が「1. 理解していない」状態だったら意味のないコミュニケーションの上乗せ……。

 

 

段階が違えば、対処法も違う

こうして段階ごとに考えてみると、段階によってコミュニケーションエラーの原因も違うし、効果的な対策も違うことがおぼろげながら見えてきました。それをここで明文化してみたいと思います。

 

1. 相手にとって過不足ない情報を与えられた?

「1. とにかく喋りきった」けど相手が理解したのかすら分からないのなら、相手にとって労なく理解できる伝え方ではなかったのかもしれません。もしくは、相手の聞く体勢が整わないうちに畳み掛けて話してしまったのかもしれません。相手の立場に立って、相手が余裕を持って聞けるタイミングを伺ったり、相手にとって過不足ない情報を与えられたかを見直すべきかもしれません。

 

2. 「自分にとって試す価値あり」と思える言い方をした?

「2. 相手が伝えた内容を理解した」けど行動に変化がないのなら、相手はそれを理解しはしたけど、「自分にとって試す価値あり」とは思っていないのかもしれません。

たとえば、私が「鋼の錬金術師は、主人公の兄弟が何度打ちのめされても前に進むところが見どころで……! だから、ぜひ見てみて!」とアニメを友達に進めたとします。友達は「鋼の錬金術師は成長譚である」ということは理解しました。しかし、その友達は「成長譚を見る」ことに自分のくつろぎの時間を使いたいとは思いませんでした。だから、その友達は私の言ったことを理解はしたけど、残念ながら鋼の錬金術師は見てくれないでしょう。でも、その人が年配者が活躍するシーン好きだったとしたら、私はこう言い添えることができます。「鋼の錬金術師は、おじさん・おばさんも活躍するところがカッコイイ作品で……!」そうすると相手は「なら鋼の錬金術師を見てみよう!」と思うかもしれません。

こうして、相手が「自分にとって試す価値あり」と思える言い方に寄せていくと相手が行動を起こしてくれる可能性が高まるんじゃないかなと思います。

 

 3. 納得できる展望があると確信できてこそ人は変わろうとする

「3. 相手が伝えた内容に沿った行動を起こした」けどそれを継続しなかったのなら、相手は行動してみたものの継続するだけの魅力は感じなかったのかもしれません。

 

……講師業をする私にはここの難しさを痛いほど感じます。その場で伝えるべきことを理解してもらい、その場で試してみていただくことまではできても、それを私がいないときにも行っていただくこと、そしてそれを半永久的に行っていただくのは本当に大変なことです。日本語の自然な歌い方にしても、自然な笑顔の練習方法にしても、相手はそれに興味があるから私を呼んだり・私のところに来たはずなのに、それでも相手に継続的な行動を起こすことは本当に難しいことです。

 

ここに対する私の成功体験は乏しく、その上そこから「自分の行いに関する法則性」を見出すこともできていません。だいたいの成功の要素が受け手側にあるから。

ただ、いろいろ試してたことを整理したくもあるのですが、すでにこの記事だいぶ長いので今回は割愛します。

 

 

 

「伝えた」ってことをただ場合分けしてみました。コミュニケーションエラーってつい感情的になりやすいので、そのときにはこの場合分けを思い出してみることにします。そうしたら少しは冷静に、その状態を良い方向に向けるために自分ができることを探せるようになるかな。