ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

マナーを勉強したら、「お相手を思う」ってことにも方法論があった

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マナーのお教室に通っていたとき、最後に課されたレポートのテーマは「異文化理解」でした。

 

「異文化理解」とは、異なる文化を持つ方のことを考えるには自分視点ではなくその方の視点で考えようという意味のことですが、これが「お気遣い」において重要なのです。

 

 

異文化のはじまりは家族

マナーでいう「異文化理解」における異なる文化を持つ方は、海外の方だけに限りません。

生まれ育ちが東京か、関西か、田舎かということも含まれます。

団塊の世代か、ゆとり世代かということも含まれます。

 

もっと細かい区分まで含みます。

 

「異文化」は、自分と自分以外のすべての人の間に隔たっているものと捉えるのです。

 

自分と、家族も含めたすべての他人は、違う背景の上に人格を形成している。

だから、お相手のことが分かるはずがない。

だから、無条件に分かり合えるはずがない。

 

というのが「お気遣い」の出発点だと、私は思います。

 

 

お相手のことを思うってことにも方法論がある

だから、お相手のことを考える際に

 

「私だったらどうするだろう?」

「私は何をしてあげられるかな?」

 

と考えるのではなく、

 

「この方の立場だったらどうするだろう?」

「この方はどうしたいと思っているんだろう?」

 

自分ではなくお相手を主語にして考えましょうという教えがあります。

 

 

 

お相手のことを思う究極の形は……

また、お相手のことを思った配慮でさえも必ず言葉を添えます。

 

たとえば、美しい庭園が特徴のレストランにお相手をお連れするとしましょう。

プロトコール(国際儀礼)では入り口から遠い側が上席というルールがあります。

しかし、美しい庭園が見えるのは入口側の席で、このレストランではその長めを楽しんでいただくためにあえて入口側のお席を上席とする慣習があるとします。

 

 

そのときに入口側のお席を指して

「こちらのお席をどうぞ」とご案内するのは、お気遣い度2点くらいです。

※採点は私の勝手な尺度です

 

「眺めが綺麗ですのでこちらのお席へどうぞ」と理由を添えると、お気遣い度3点くらい。

 

そして、「こちらの空間では眺めが綺麗ですので、よろしければこちらのお席をどうぞ」とお相手に選択権を委ねると、お気遣い度満点です。

 

 

もしかしたら、お相手は美しい庭園には興味がなく、それよりもプロトコールを厳格に守ることに関心があるかもしれないからです。

お相手のことを分からない自分をちゃんと認めて、お相手を勝手に定義づけることはしない。お相手のことはお相手に決めていただくというのがお気遣いの究極の形であるというのが、私がマナーをお勉強して得た一番深い学びです。

 

「社会」の人たちと喋るのが苦手な私たち

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満員電車が嫌いです。

 

 

満員電車というものは苦痛に満ちています。

 

身体の距離がありえない近さであるという苦痛に加えて、コミュニケーションが成立していないという苦痛。

 

 

見知らぬ人と密着するというありえない身体の近さのために、バランスを取ろうとしてなのか「自分の殻に閉じこもる人」が多いように感じます。

 

 

 

たとえば、降りる人が少ない駅で出入り口から遠い人が降りるとき、無言でドンドン体当たりをするようにして人を掻き分けて降りていかれる人がいらっしゃいます。

 

一言、「降ります!」と言ってくれれば、モーゼの十戒のようにとはいかずとも、うっすらと道が開かれるでしょうに。

 

 

 

たとえば、降りる人が多い駅で出入り口から近い人も遠い人も、我先にと出口へ向かいます。そのためにドアのあたりはもみくちゃ。

 

電車に乗る順番待ちをするのと同じように、電車を降りる順番待ちをすれば、髪が乱れたり服や鞄の型崩れを起こすことなく済むでしょうに。

 

 

 

たとえば、雨の日の電車では、立っている方の持つ濡れた傘から垂れる雫が、その前に座っている方の靴に当たることだってあります。靴が濡れてしまうのは誰だってイヤでしょう。でも、だからといって手で押しやるというのはいかがなものでしょう。押しやられた方にイライラして反骨心が芽生えるかもしれません。

 

一言、「すみません、傘から垂れる雫が私の靴に当たっているので、よけていただけませんか?」と言葉があれば無駄な衝突が避けられるのに。

 

 

 

満員電車は「社会」。身体での意思疎通は場にそぐわないと思う

満員電車で居合わせる人たちは、「社会」の人たちであって「世間」の人たちではありません。

zerokarasaki.hatenablog.com

 

 こちらの記事で取り上げましたが、

 

「社会」とは、さまざまな人がいて、コミュニケーションに言葉を尽くす必要がある環境、

「世間」とは、コミュニティーの中で濃密に強くつながっていて言葉があまり必要でない環境

 

を指します。

そして、日本人は「世間」は得意だけれど、「社会」には抵抗感があるといわれることもあります。

 

 

自分の領域が見知らぬ人に侵される満員電車は、動物にとって過酷な環境です。

だからつい防衛本能みたいなものが働いて自分の殻に閉じこもりたくなります。

そして、他人への配慮なんて概念から忘れ去ったような行動をしがちです。

 

でも、人と人が同じ環境にいるのですからコミュニケーションはなされています。

 

満員電車の中ほどに居て、「私はこの駅で降りたい」と思ったときに誰とも接触せずにドアにたどり着くことはできません。

言葉で近くの方の協力を得たり、進行方向へ向かって突進するという行動で周りの方を動したり、何らかの形で他人との交流が行われます。

 

 

見知らぬ人とコミュニケーションを取るのに、「身体」ではなく「言葉」の方がまだ心地よくはありませんか?

 

 

もうちょっと、「社会」の人と喋るのに抵抗をなくそうよ、日本人……と、満員電車に乗るたびに思います。

 

歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと

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1年くらい前に見た、ヨルタモリというTV番組で、秋元康さんがたしか、

 

「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」

 

って語ってた。

 

 

そこで秋元さんが語ったエピソードまでは覚えていないけど、その意味はだいたいこういうことだった。

 

 

 

たとえば、ここに1本のボールペンがあるとする。

コンビニで間に合わせのために買うような数百円のボールペンではなくて、文房具屋で自分にしっくり来るものを選んで買うボールペン。

 

 

それを見て、大人は微笑んだりする。

「そういえば、卒業と就職のお祝いにとゼミの先生がボールペンをくれたっけ。課題の講評は厳しかったけど、いつもその後飲んで語り合ったな。先生元気かな。ボールペン、今は棚にしまってるんだっけ。帰ったら引っ張り出してカバンに入れよう」

 

 

それを見て、大人は切なくなったりする。

「そういえば、彼は元気かな。いつも使い古したボールペンと手帳を持っていて、メモや予定管理は絶対手書きってこだわってたけど、今もあのボールペン使ってるのかな」

 

 

こうして、一般的には特別ではない何気ない物や何気ない風景・何気ないシーンに感動できる。

なんでもないものが特別になる。

 

そんな特別が量的にも質的にも増えるのが年を取ることだと、秋元康さんが語っていた。

 

 

なんてロマンチックな世界の切り取り方だろうって、あの時も今も思います。

 

 

秋元さんは、隠れていたものを見えるようにした

 


公共広告機構 CM 『黒い絵』

 

このCMは「子供の発想力は、大人の予想を超える」というメッセージを発信する印象深いCM。

こんな風に、世の中では「子供の発想力は豊か」といわれることが多いです。

 

 

だからこそ、秋元さんの「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」ということ、年配者のほうが豊かに発想を広げることができるという切り口に、私は目を開かれる思いがしたのかもしれません。

 

 

 

人は、目に見えるもの、言葉として耳に入ってきた情報で他者を判断します。

 

子供は、多くのことを報告してくれます。

他者に認識されることをゴールとするなら、子供の発想に無駄打ちは少ないのです。

 

 

一方、大人の発想力は人の目に触れにくい。

一般的に、大人はその場を意識した振る舞いをします。

冒頭の例のように、店頭でボールペンを見てストーリーが浮かんだからといって目の前にいる店員さんを捕まえてそのストーリーについて詳細を語ったりしません。

発想は目まぐるしく働いているのに、他者に認識されることをゴールとするなら、大人の発想は大多数が無駄打ちに終わっているのです。

 

 

そんな、人に見られることなく浮かんでは消えていく儚い発想を秋元さんは美しく切り取りました。

 

「歳を取るってことは、そこにストーリーが見えてくるってこと」

 

そう語れる歳の取り方をしたい。

 

「類友」って、最高

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「類は友を呼ぶ」

 

私の好きな言葉の一つ。

 「類友」って略しちゃうくらい、ここのところ使用頻度が高くなりました。

 

今、受講している長期の講座でも「類友」効果により素敵な出会いに恵まれました。

 

 

私は、講座を受けるなら最大限有意義な時間にしたいタイプ

講義を受けるとき、私は極力最前列に座ります。

なるべくストレスを削って、講義に集中したいからです。

 

ホワイトボードやスライドが見えるか心配するのは嫌だし、

人の頭を避けて前が見えるコースを探すなんてことをするのも嫌。

 

そもそも興味がいろいろなことに移りやすいので、他の受講者が視界に入ると

「この人の講座への集中度はどのくらいなんだろう?」とか

「この人、今すごく頷いてる。何がそんなに刺さったんだろう?」とか

余計なことを考え始めてしまうのです。

 

「ピンクの象を思い浮かべないでください」と言われてピンクの象を思い浮かべないことが不可能なように、他人を視界に入れておいてその人のことを考えないようにしようというのは私にはほぼ不可能です。

 

だから、私はいつも見晴らしのいい最前列を狙います。

 

 

そして、おそらく誰よりもモリモリメモを取ります。

多くの人は、講座を受けるとき「講座の内容を知りたい」と思うのではないでしょうか。

 

私はそれに加えて、

「講座の内容について他の分野に転用するための引っ掛かりを見つけておきたい」

「講師の伝え方を、自分が伝える立場に立つ際の参考にしたい」

などと思います。

 

経験値の荒稼ぎをしたいと欲がでてしまうので、誰よりもモリモリメモを書くことになります。

 

 

また、講師の言動に対して反応することや、質問をすること・意見を述べることに躊躇しません。

正確には、躊躇しないよう心掛けます。

 

自らも講師の立場に立つことがある身であることから、「反応」があったほうが講師はやりやすく感じ、モチベーションが高まることを身をもって知っているからです。

 

また、「反応」と紐付いた体験の方が、その内容が自分の中に残りやすいからです。

 

「反応」や「発言」をするのは、正直体温が0.3度くらい上がる感覚を覚えます。

ドキドキします。

 

それを不安感と捉えるのではなく、だから、「反応」や「発言」をしようと思うように意識づけしています。

ドキドキしながら思ったことを、私はその後何度も思い出すからです。

 

 

そんなこんなで、結果として私は、最前列でモリモリとメモを書き発言もしたりする受講生になります。

 

 

「類友」って、最高

今回この長期講座で私は素敵な人達と出会いまいした。

彼らと語ったり、自主課題を設定したりすることで、より講座が有意義なものになっています。

 

はじまりは、懇親会で最後まで残ったメンバーだったこと。

その点をとっても「類友」といえるかもしれませんが、その次の講義でもっと深いところで「類友さん」であることに気づきました。

 

その人たちも、前方に座り、挙手して発言する人たちだったのです。

 

 

「類は友を呼ぶ」はもしかしたら人間関係の原理原則なんじゃないか?

と仮設を立てて検証したいくらいに、最近「類友」という言葉が存在感を増しています。

 

「どの点が似ているからお互いに呼び合っている」と言語化できないのは、私達の見る目と言語化能力が足りないだけで、すべての人間関係は「類友」で関連付けることができるんじゃないかと空想することがあります。

「類友」はいくらでもこじつけが効くから、「類友」は無いというのは「悪魔の証明」に親しいことになっちゃう。だから逆に「類友」は絶対だとも割り切りにくく、いつも空想の域をでないのです。

 

空想していて思うのは、「類友」作用が起きるときの「似ている点」とは、それぞれが頭のなかで何を考えているかとかどういう理想を描いているかとかではなく、それぞれがどういう態度を取っているかという「見え方」にあるんじゃないかなということです。

 

「スクラップアンドビルド」に関する一抹の不安

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シン・ゴジラ』のラストにほど近いシーン。

 

赤坂内閣官房長官代理に印象的な台詞がありました。

スクラップアンドビルドでこの国はのしあがってきた、だから今度もやれる」

 

ちょっぴり悲壮感を秘めつつも、脅威を越えてなお崖っぷちの日本を背負う者が口にする「スクラップアンドビルド」に、覚悟と希望を感じました。

 

『破壊の裏に創造あり』には刹那的な美学がある

スクラップアンドビルド」とは、

 

古くなった既存のものを壊し、新しいものに置き換える

 

 

という意味を持った言葉ですが、私がこの概念と出会ったのは、多分、『鋼の錬金術師』のルイ・アームストロングの台詞

 

『破壊の裏に創造あり』

 

だったように思います。

 


大好きな漫画の印象的な言葉だったからか、

 

・新しいものが生まれるとき、その裏では何かが壊れている

・何かが壊れたからこそ、新しいものが生まれる余地ができる

 

と、「壊れる・壊す」ことと「生まれる・生み出す」ことの間のはかない運命性に美学を感じました。

 

「散るからこそ桜は美しい」的な、刹那的な美しさを。 

 

 

このような「スクラップアンドビルドに美学を見出す」のは、ルイ・アームストロングや私だけではなく、多くの日本人もきっとそうだと思います。

 

 

「スクラップ・アンド・ビルド」とパッケージ化した日本人

この美学は、大きな自然の力と折り合いを付ける際に絶大な力を発揮します。

当事者に必要なのは、「スクラップ」の原因を探ることよりも、今を生きるために前へ進むことです。

 

破壊の後、半ば反射的に

 

「破壊されても、そこから這い上がる力があるんだ!」

 

と思えることは、当事者自ら立って歩くための力になります。

破壊から復興までを一つの流れとして捉える概念があるからこその作用でしょう。

 

 

そんな原因を問うより課題と向き合う姿勢は、生き様としてカッコイイ。

それを導く「スクラップアンドビルド」という言葉もカッコイイ。

 

少し前までそんな風に思っていました。

 

 

しかし、今、「スクラップアンドビルド」を無条件にカッコイイものだと私は思えなくなりました。

 

 

「スクラップ」は失敗体験の場合もある

それは、「スクラップアンドビルド」が濫用されているように思うからです。

 

多く、「スクラップアンドビルド」は成功体験の響きを帯びて、「だから頑張ろう!」という文脈の中で用いられますが、その「成功」は後半の「ビルド」に宿るものです。

 

そして、前半の「スクラップ」は本来「仕方のないこと」であるはずです。

しかし、昨今「スクラップ」が「失敗」である場合にも「スクラップアンドビルド」が用いられていることがあります。

 

 

たとえば、明治維新後の急成長や敗戦からの復興が「スクラップアンドビルド」の一例として語られる場合があります。 

 

しかし、それは一つの流れとして捉えていいものでしょうか。

 

確かに流れを見れば「スクラップアンドビルド」の要諦を成しています。

けれど「スクラップ」に人的問題が絡んでいるのなら、「スクラップ」単体をしっかりと振り返るべきではないでしょうか。

 

 

スクラップアンドビルド」=成功体験ではない

国家という大枠ではなく身近な組織においても、「崩れた。でも立て直した。そして立て直したものは前より強くなった」というとき、「スクラップアンドビルド」という言葉でまとめてしまいたくなります。

そうして、一つの成功体験としてストックしたくなります。

 

けれど、崩れたとき毎回都合よく立て直すことはできないかもしれないし、崩れずに強くなれるのならそっちの方がいい。

 

 

スクラップアンドビルド」というどこはかとない美しさのために、「スクラップ」の要因を探ることから無意識的に遠ざかってはいないか、目を曇らせてはいないか、と私は時々不安になります。

 

やっぱ講義って「生」ってことに価値があるんだな

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今、習い事に通っている。

 

長期の習い事で、週2回平日の夜に講義を受ける。

仕事終わってからの夜の時間の受講にも関わらず、いつも楽しい。面白い。

目を光らせて先生やスライドを見て、モリモリとメモを取る。

 

 

ある回、仕事の都合で受講できなかった。

そんなときには後日ビデオ受講ができるのも、この講座の受講を決めた理由の一つ。

決められた時間に各自のPCで決められたアドレスにアクセスして、各々受講する。

 

 

講義は、講師が一方的にお話する形が取られることが多い。

だから、実際に受講したときと同じとはいかないまでも9割ほどの満足度と学習度を得られると見込んでいた。

 

 

そして、やってきたビデオ受講。

いつものようにモリモリとメモをとった。

 

 

 

しかし、中盤に差し掛かって、飽きた。

 

というより集中できなくなった。

 

 

「あー、あのメールの返信してなかった」とか

「そいえば洗濯物溜まってるんだっけ」とか

「私、なんか疲れてるな」とか

「今、集中できてない。一時停止してリフレッシュしてから再開するか?」とか

「お腹減った」とか

「眠い」とか

 

 

意識が揺れた。

 

 

もともと興味があちことに飛ぶタイプで、講義中、脳に余白ができたらその余白でいろいろなことを考えるタイプではあった。

生の受講なら、「この講師の伝え方を分析してみよう」とか「今おっしゃったことって、分野を変えて言い換えるならこういうことかな」とか、授業に紐付いたことにアンテナが向く。

 

しかし、家での受講は「自分の状態」や「家の状態」に関することが脳の余白にどんどん流れ込んできた。

 

そうして講義の流れから取り残されてしまっては、そこに戻ることは容易じゃない。

 

 

あーー。やっぱ講義って「生」ってことに価値があるんだな

 

 

ってことを実感しました。

 

 

「場の雰囲気に支配される」

そんなことがこの前あって。

小林秀雄さんが「講演を行うこと」について語っていた言葉を思い出しました。

人々が共通の目的を持って一同に会すれば、必ずその場の雰囲気に支配される。
小林秀雄全作品〈21〉美を求める心『喋ることと書くこと』より

 

 

これと出会ったときは講師の立場で読んでいて、「こうなったらやってやるか!」という思い切りを引き出してくれる発想だなと思いました。講師を勇気づける言葉だと。

 

しかし今回のことで、聞き手の背中を押してくれる発想でもあると思いました。

 

 

そんな発想のなかから一つの要素を取り出して「思考停止」って言語化して、今回の私の体験を紐解けるんじゃないかと思います。

 

 

つまり、私は家では「思考停止」できなくて講義を面白くなく感じてしまったけれど、もし生の講義だったらその場の環境の力を借りて上手く「思考停止」できて講義を楽しむことができたんじゃないかと思うのです。

 

 

 

家で、一人の空間って、その環境の主人は紛れもなく自分です。

自分にすごく敏感であることを許される環境です。

だから自分の些細な思考も際限なく働かせることができるし、そういう使い方に慣れています。

そうして、脱線して行き着いたのが「一時停止するか?」です。

私は講義からの離脱を選択肢に挙げたのです。

 

 

それに対して、講演会場の環境の支配者は「場の空気」です。

「多くの人がここに一つのものを享受するために揃った」その空気の方向性と無関係でいることは不可能に近いでしょう。

多少つまらないと思うことがあっても、その対象に向かい合いつづけることになります。

そうしているうちにつまらないところは抜けて、面白く感じるところが出てきたりします。

 

 

そんな「一時停止するか?」の選択肢がそもそも浮かばない状況、つまり無意識のところで「思考停止」が働いている状態が、講義を楽しめる要素の一つなのではないかと思いました。

 

遠く高いゴールだけを見たいから、基礎力を磨く

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 私にとって、春はアンサンブルの季節です。

毎年アンサンブルを企画して『東京 春のコーラスコンテスト』というアンサンブルコンテストに出場しています。

 

今年で早5年目。

今や、年度の終わりにこの1年の自身の成長度を測る機会となりました。

 

 

決起からコンクールまで、毎年、何かしらの目標立てをして突き進んでいきます。

 

2年目は「基礎力向上」

4年目は「ただ楽しむ」

5年目は「ちょうど一人分歌うこと」

 

などなど、自分やメンバーの練習の指針になる言葉を用意するようにしています。

練習できる時間は限られていて、何もかもを欲張ることはできないから。

 

 

こうして毎年アプローチは変わりますが、いつも大切にしている理想像は高校生の頃からずっと変わりません。

 

・基礎力が磨かれていること

・見せるものすべてに気を使うこと

 

です。

 

 

遠く高いゴールだけを見たいから、基礎力を磨く

アンサンブルや合唱に限らず物事はなんでもそうかもしれませんが、「今」を追いかけると付け焼刃的な選択をしがちになってしまいます。

 

次の本番にとにかく間に合わせたいから、1000本ノックのようにして取り敢えず歌えるようにする。

先生に「そこの音はもうちょっと高く!」「そこの母音はもうちょっと狭く!」と言われて、言われるままに「それ!」と言われるまで体に染み込ませる。

 

これは、その物事と短い期間浅く付き合うのならそれは最適な行いでしょう。

玄人もいれば初心者もいるような合唱の歌い手すべての人の懸念をもらさず潰してみんなの理解度をならすのには相応の時間が掛かります。そんなことをしていては、次の本番で求めるレベルまで辿りつけないかもしれません。無駄は削って最短ルートで次の本番を目指すのが賢いやり方というものです。

 

 

でも、長い期間深く付き合い、自身を磨いていきたいと思うなら。ゴールを遠く高いところに置くなら。そのゴールを目指すなら。こういった行いこそが無駄な行いといえるかもしれません。

 

だって、

 

高く! と言われたから音を高くした。

狭く! と言われたから母音を狭くした。

 

そんな行いで歌い手に養われるのは「調整力」くらいのものです。どんなときに高くすべきなのかという和声的な視点も、どんなときに母音を狭くすべきかという発語のルールもその人には根付きません。1000本ノックしたのに、次のステージに進むための経験値は溜まっていないのです。

 

言われたことはできるし、回数を重ねればそこから察した学びを他の箇所に応用できるようにもなるでしょう。けれど、自分で生み出すことはできない。

そんな状況になってしまうと思うのです。

 

 

だから、今ではなくゴールを考えるのならば。

 

次の本番に形になりきらないことがあったとしても、自分で生み出せるようになる力をつけることを、私は優先したい。

 

いろんなことに応用できる「基礎力」をこそ養いたい。

それが私のこだわりの一つです。

 

 

耳も目も肌も脳も刺激したいから、すべてに気を使う

もう一つのこだわりが全てに気を使うということです。

 

合唱はダサい。合唱の外の人は合唱に対してそんなイメージを持つ人が多いと思います。

 

それも仕方ありません。

 

合唱人自身も「合唱はダサい」と思っている人も多いのですから。

「いや、うちの合唱団はオシャレだよ」と言ったりする合唱人もいますが、それだって「(合唱は基本的にダサい。そんな普通の合唱団とは違って)うちの合唱団はオシャレだよ」ってことだと思うのです。

 

そんな合唱人のダサさのひとつの要因は、見た目に気を配れる人が少ないことにあります。

 

お揃いの衣装が悪いとは思いません。

たとえそれが、指定の白ブラウスと指定の黒のロングスカート(通称:黒ロン)でも。

 

問題は、意識の方にあるように思います。

 

合唱の本番があるから肌ケアしよう!

合唱の本番があるからジムに通おう!

合唱の本番があるから姿勢を正そう!

合唱の本番があるから身振りを気をつけよう!

 

こういうふうに努力する人がどれだけいるんでしょう。

 

 

どちらかというと、

 

「外を飾るよりも、質重視」

「飾り気なんてない方が、聞く邪魔にならない」

 

なんて声が聞こえそうです。

 

 

でも、合唱だって「聞かれるもの」であると同時に「見られるもの」です。

 

だって、歌なんです。

楽器もないんです。

体全体がお客様に見られているんです。

 

 

だから、

 

合唱の本番があるから美しくなろう!

 

が普通だと思うし、

 

 

衣装も並びも、歌っている最中に動くか動かないかも、全部音楽のうちだよ!

 

って、思います。

 

 

演奏会は耳だけで楽しむものではなくて、

 

目で楽しみ

雰囲気を肌で感じて楽しみ

演奏者が何か工夫を凝らすのを脳でキャッチして楽しむものだよ!

 

って、叫びたくなります。

 

 

理想は膨らめど

この理想が具体的にどういう形に結晶するのかはまだ分かりません。

だから、追いかけるのが楽しいです。

今年も、ちょっとでも近づけるよういろいろ試みてみます。