ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

「忙しいの好きだよね」って言われたので精一杯の反論です。

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よく思い違いをされますが、私は忙しいのが苦手な人間です。

 

基本予定が埋まっているからか、「忙しいのが好きな人」って思われるんですけど、私は忙しいのは嫌いです。


そもそも「忙しい」っていうのは予定がどれだけ詰まっているかやどれだけのタスクを所持しているかを表す言葉ではなく、心理描写の言葉だから、「忙しいね」とか言われると相手に私の気持ちを決められているようで気持ち悪くなっちゃうんです。しかも、「忙しい」は何かを逃れるために使われることが多くて免罪符のような意味合いがこびりついていて、「忙しい」って言ってる人には距離の取り方や接し方に気をつけなきゃいけないような感覚を習慣的に覚えているからかもしれません。

 

免罪符みたいなっていうのはたとえば、母「たまには子供の送り迎えをしてよ」父「俺は忙しいんだ!(といいつつ趣味の野球観戦はしている)」とか、部下「こちらの案件についてのご判断、どうか本日中にいただけますでしょうか」上司「俺は忙しいんだ! そんな案件今日やる暇はない!(といいつつ先に帰る)」とか、大学生「今回くらいは飲み会幹事やってよ!」その友達「オレ忙しいからさ、ゴメン、頼むわ!(といいつつ別の友だちと飲みに行く)」みたいなことに象徴されるかんじ。

 

こんなふうに使われる頻度が高いから「忙しいね」って言われると「私この人に対して言い訳がましい対応しちゃってるんだな」って思うし、「忙しい」を私は文字のつくりどおり「心を亡くしている状態」って解釈してるから、気が置けない関係での冗談とか皮肉とか煽り以外では発言にためらうくらい「忙しい」って言葉を使うのを慎重に避けているんです。

 


ちょっと話は戻りますが、予定がギッシリなのは構わないんです。私にとって大切なのはひとつひとつにじっくり全力で取り組めるかどうかだけなんです。これが成されるなら予定ギッシリも全然だいじょうぶだし、これが成されないなら予定ギッシリでなくてもだいじょうぶじゃないんです。

 

予定とかタスクとか業務とか仕事みたいなものって、ただそのものと向き合って作業をしている時間と、それについてさまざまに視点を置き換えて「この作業って結局誰のためなんだろう」とか「改善や改革の余地はないかな」とか思索をする時間とで構成されていると思うんです。私は、作業というインプットあっての思索だと思うし、インプットが多いほど思索は弾むと思います。だから作業もそこそこ好きです。でもね、バランスがあって、「予定」に割り当てている時間のうちほぼすべてを作業に費やさなきゃいのは嫌なんです。それがまさに、私にとっての「忙しい」状態だから。私にとって「心を亡くす」の「心」は思索なんです。思索の時間が取れなくなった瞬間、私は死に瀕してしまいます。っていうことなんです。

 

実際「忙しいな」って感じていた先週は、ブログ書く時間とってたのに何も整わなくて書けなかったしね。でも、「あ、忙しいの抜けた」って思ったその後は整えたいことがどんどん浮かんでくる。私にとっての心の有無の象徴は思索できるかどうかなんです。

 

 

ただ、「忙しい」に対して拒絶反応を持っているわけではないことを最後に言い添えておきます。ときどき忙しい状態に陥るのは、自分のキャパを伸ばそうとか自分流のやり方を見直そうってモチベートするのに役立ってるなと思うし、「忙しい」を知っているから「忙しくない」ことを知覚し堪能することができると思うから。「忙しい」の存在は認めています。必要悪だと思います。「闇があるから光がある」みたいな。ちょっと違うか。