ゼロからさきへ

「知りたい!」「面白そう!」「なになに!?」に溢れた毎日

冬を何だと思ってるの?冬って寒くて当たり前だよ

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日露戦争当時の日本人兵士たちは、今では考えられないほどの軽装で戦い抜いたそうです。

 

 

また今は立派でエアコンまで装備されている住宅に住む私たちですが、こんなに室温をコントロールできるようになったのはたった半世紀前のことです。

エアコン普及率が5、6割に達したのは40年前のことなのです。

 

そしてなんとなく、私の想像ではエアコンのない時代の人たちが毎日「寒い」「寒い」と口にしていたようには思えません。

 

 

人の脳は1日に数千もの考え事をしている

その中で、重要度の高そうなものだけが意識の表層に登る

 

そんな話を聞いたことがあります。


きっと、「寒い」と気付いたとしても、それに為す術がなければ「受容する」方向にいき、頻繁に意識の表層に登場することはないのではないでしょうか。

 


しかし、今はたくさんの選択肢があります。


寒い。
だから、今日は家から出るのを辞めておこうか。
だから、エアコンで室温が整えられた家にずっといようか。
だから、カイロを持って出ようか。
だから、ヒートテックを着ようか。
だから、自販機であったかいものを買おうか。

 

選択肢が多くあるから「寒い」ということを、判断すべきものとして意識の表層に上げてしまう。

それが、もう「過敏」の域だと思うのです。

 

 

私たちは、確実に50年前の方たちより暖かで快適な生活をしています。


それなのに、「寒い」って毎日何度も嫌がることは、もしかしたら健康的なことではないのかもしれない。

「冬が寒い」ってことを忘れて、過ごしやすい快適な気候を思い描いているから、毎日「寒い」って思うのかもしれない。

 

 

そう思って、理想像を「冬は寒いのが普通」って置き直したら、冬は寒くなくなりました。

 

自室でエアコンを付けることも少なくなりました。

私には、ヒートテックもあったかいコートもあるもの。それで十分。

 

恋バナ「憧れは理解から最も遠い感情」

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友達:

私さ、尊敬できる人じゃないとダメなんだよね

 

わたし:

分かる! 「憧れって理解から最も遠い感情」っていうじゃん!

尊敬ってそういうことなんだよね!

 

友達:

え、それ知らないー! でも、分かる! 遠いから付き合えるんだよね

 

わたし:

でしょ!? 理解しきれないって分かってるからこそ、相手とうまく距離を取りやすくなるんだよね!

 

先日の友達との恋バナ。

 

 

ーー「尊敬できる人が好き」

 

好きなタイプを聞かれたときの常套句。

でも、なぜ尊敬できる人が好きなのかは人によって違うし、尊敬できる人は具体的にどんな人なのかも人によって違うとってもあやふやな言葉。

 

なのに、その友達と「なぜ尊敬できる人が好きなのか」が一致して嬉しかった。

 

相手のことを「理解できている」ということを前提にしていると、相手との少しの差に悲しくなったり苦しくなったりする。

でも、相手のことを「理解できないところがある人」と思っていると、相手との差も楽しめる。

 

「憧れは理解から最も遠い感情」。

だからこそ、その人との関係をうまく続けるスパイスになる。

 

 

 

そんなことを友達と語って分かれた帰り道。

 

「そいえば、友達知らないって言ってたけど、憧れは理解から最も遠い感情って、私どこで知った言葉なんだろう……」

 

ぐぐってみたら、『BLEACH(ブリーチ)』でした。。。

matome.naver.jp

 

意識高い系と意識高いの境目ってどこにあるの?

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意識高い」って言葉は、褒め言葉にもけなし言葉にもなる。

 

 

言葉の意味がポジティブからネガティブへ広がったり、狭い意味から広い意味に広がったりするのは、言語の性みたいなもの。

 

「ありがとう」だって感謝を伝えることもあれば嫌味を伝えることがあるし、「いつもありがとう」なんて挨拶代わりに使われることもある。

 

そのときの話の流れとか、そのときの空気とか、表情とか、声の感じとか、そういったものによって、言葉の伝える意味は変化する。

 


ただ、「意識高い」は「ありがとう」と比べれば新しい言葉だから、その言葉が伝える意味のバリエーションは狭い。

褒め言葉かけなし言葉に大別できる。つまり、「あなたのことほんとうに凄いと思う」「凄そうなことやってるけど、別に共感できない」のどちらか。

 

この後者は裏では「意識高い系」って呼ばれるものだけど、表ではちょっとずつ相手の気持ちいい言葉に言い換える日本人の性によって、「意識高い系」は「意識高い」に変身する。

 

 

意識高い」と「意識高い系」の境目

そんな、「意識高い」と「意識高い系」の境目が気になっている。

他者のエピソードを聞いたり、FBを見たりした時に、「意識高い!」って思うときと「意識高い系だ―」って思うときがあるのです。

 


たとえば、「毎日名言を紹介する」っていうこと。

括ってしまえばそう言える行動も、TPOによって私の捉え方が変わる。

 

ネットや本から借りてきた名言をそのまま載せるだけなら、それは「意識高い系」。

今日の名言:「継続は力なり」

 

でも、名言にその人なりの言葉がくっついていたら、それは「意識高い」に近づく。

「継続は力なり」っていう言葉の重みを今になって感じる。どんなにいい発想があったとしてもそれを実行して形にしないと誰にも気づいてもらえない。そして、大きなことをしたいときほど形になるまで時間が掛かる。その途中で折れてしまう可能性は桁外れに大きくなる。でも、形にするまで頑張れないと、他者から見たら何もやってないのと一緒。今年、結果にこだわりたい私は「継続は力なり」を意識しようと思う。

 

そして、その言葉が多くの人の共感を呼ぶのなら、それは完全に「意識高い系」から抜けて、「意識高い」をも抜いて、「凄い人」ってもっとシンプルに表現されるようになる。

 

 

たとえば、「自分磨きにお金を掛ける」こと。

これも状況によりさまざまだと思う。

 

お金を掛ける対象を次から次にファッションのように変えるなら「意識高い系」だと思う。その対象がエステでも健康食品でも習い事でも。

 

反対に、継続して取り組んでいたり、行っていることに一貫性があるように見えると「意識高い」に近づく。

 

さらに、それが仕事につながったり社会に貢献できることだったりして、投資した分、何かが返ってくる様子だと、それはもっと「意識高い」に近づく。ただ、その「何か」は、楽しさとか充実感とか自分しか測定できないものではなくて、客観的に測定できるものであった方が、理解したり共感したりしやすい。

 

 

 

こうして、ちょっぴりザクッと考えてみただけだけど、「意識高い」か「意識高い系」かの境目は行動というより「取り組み方」の方にあるみたい。そして、共感や憧れといったポジティブな感情が生まれたときに「意識高い」って思えるみたい。

 

 

 

『ゴジラ』も『シン・ゴジラ』も「万人の正義」が存在しないって叫んでるみたい

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昨年は、私にしてはいろいろと映画を見た1年でしたが、見たその時もその後も長く楽しんだものと言う意味では1番は『シン・ゴジラ』でした。

振り返れば『シン・ゴジラ』に関連してブログも7記事書いています。

(1. シン・ゴジラは災害体験/2. 伊福部昭の音楽の切なさ/3. 伊福部昭と鷺巣詩郎の音楽の対比/4. シン・ゴジラは明確な「軸」に沿って作られている/5. シン・ゴジラのリアルさは脳に宿る/6. シン・ゴジラの視聴は理解モード/7. 名台詞「この国はスクラップアンドビルドでのし上がってきた」について

 

ネット上の『シン・ゴジラ』関連記事も多く読みました。その中に、初代『ゴジラ』との類似性を指摘する記事が多くあり、気になっていた『ゴジラ』をようやく視聴しました。

 

まず一言で感想を述べるなら……

庵野秀明監督映画『シン・ゴジラ』と同様に本多猪四郎監督映画『ゴジラ』もまた「体験」でした。

 

zerokarasaki.hatenablog.com

 

というより、「体験映画である」という点において、『シン・ゴジラ』は初代『ゴジラ』の系譜を引き継いでいるんだなということが分かりました。

 

ゴジラは「3.11」vsゴジラは「第2次世界大戦」

シン・ゴジラ』は、多くの日本と関係ある人にとって印象深く、また身近に感じる出来事だった「3.11」の追体験でした。

 

そしてゴジラは』局所的には「東京大空襲」、広い意味で取ると「戦争」の追体験です。

「戦争」は、原子爆弾や尾を引く放射能の影響、父が出兵して戦士し残された母子の心境、疎開、避難など小さな事象を内包したものです。当時を知らない私でも、こういったようなことを読み取れますが、公開当時の方々はもっと多くのことに、もっと細かいことに反応したのではないでしょうか。境遇に共感したり、役者の台詞が自分の言いたいことを代弁してくれているように感じたり。

 

こうして何の追体験かが違うから、ゴジラの出現の表現も違う。

シン・ゴジラ』では、ゴジラは「津波」。だから周囲を巻き込むようにして這うように濁流として現れた。街を破壊していくけれど、それは上から打ち砕くというよりは、横から押し崩す動作による。

 

一方『ゴジラ』では、ゴジラは「爆撃機」。だからしっかりと歩いてやってきてそこらを火の海にする。『シン・ゴジラ』のゴジラがかなり神格化された神秘性を持っているのに対し、『ゴジラ』のゴジラは神格化されはするもののどこか身近さを持って描かれる。それはゴジラの破壊が「自然災害」ではなく「人災」の暗喩であるからだろうか。

 

 

視聴後はやっぱり割り切れない気持ちに

 

以下の記事で、初代『ゴジラ』の音楽を担当した伊福部昭の「切なさ」に触れましたが、やはりゴジラは「切なさ」を内包したお話でした。

 

zerokarasaki.hatenablog.com

 

既に方方で語られていることではありますが、ゴジラは悪者がいない映画です。一応敵はゴジラだし、ゴジラは生活を破壊し人を殺しもします。でも、悪者としては描かれません。

ゴジラ』でも『シン・ゴジラ』でも登場人物が「殺さなくても……」と言ったりします。ゴジラを悪者にしないことで、単なる勧善懲悪のヒーロー映画にしないような、世の中には良い悪いで割り切れないことで戦わなきゃいけないこともあるというような、製作者の叫びのようなものが聞こえてくる気がします。

 

世の中や人の生き方に、明確な「正義の道」があれば争いももう少し分かりやすい形になるのかもしれないけど、「正義」は個人や一定の共同体の心の中にしかない。人と人や共同体と共同体が交わるようになったら、それぞれの「正義」が異なるために、悪者はいないのに戦わないといけなくなる。

そんな、世の中の難しさを『ゴジラ』は訴えようとしているのかなと思いました。

 

 

「やる気スイッチ」はなんだか嫌で「やるかスイッチ」って呼ぶようにした

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あれは2日前。

前日遅かったにも関わらずちゃんと早起きしてスタジオで歌の練習をして、そのあと1時間運動して、いつものとおりに仕事をした日。

ここまでは充実してた。

 

ダメなのはこの後。

帰ったら何も手につかなくてアニメをぼーっと見た。

 

「今日頑張ったし、疲れてるから仕方ないね」

 

って言い訳をして。

 

 

それが「やるかスイッチ」を重くしてしまったきっかけだと今になって思う。

 

同じアニメを見るにしても、楽しんで見る場合と、ボーッと流すようにして見る場合が私にはある。

 

2日前は確実に後者だった。

 

大好きなアニメを見てるんだけど、なんというかあんまり感動しなくて、内容もあまり覚えていない。ほんとうにただ、流すようにしていただけ。その状態で眠さと戦いながら3話くらいアニメを見続けた。今思うと不毛な戦い。不毛な時間の過ごし方。

 

 

1回、暴飲暴食するとその後に食べぐせが残ってしまうように、これで「やるかスイッチ」を押さない癖がついてしまったのか、昨日も今日も、予定が無い時間、ダラダラ。

 

やるべきこともやりたいこともたくさんあるけど、どうも身体が重くて何もできず。

 

ブログ書くにも書きたいことが整わなくて、結局、そうなった原因について振り返る記事を書き始めた。

 

この記事読みたい人なんているのかなと思うけど、ゆうてこれはブログなのでいいことにする。

 

 

 

そうだ、「やるかスイッチ」について。

これが「やる気スイッチ」でも「やるぞスイッチ」でもなく「やるかスイッチ」なのには理由がある。

 

私は、最近「気力」とか「頑張る」とかってことを自分に期待しなくなった。

 

「こいつやる気はあるな」って思われる人と「こいつやる気もないのかよ」って思われる人がいるけど、彼らの違いって「気持ちの強さ」ではなくて、行動を起こしたり続けたりする習慣がどれだけあるかだと思うようになったから。

 

結局、人は他人の気持は分からない。思考も読み取れない。その人の行動から推察しているだけ。そして、その行動のほとんどは無意識の習慣から起きている。

 

物事を続ける習慣を持つ人はそんなに無茶をしなくても「諦めない人=やる気のある人」って解釈されるんだろうし、物事をすぐ辞めてしまう習慣がある人はその人なりに無茶して普段よりすごく頑張っても「途中で諦める人=やる気のない人」って見られちゃう。

 

もしそれぞれの思考を読み取れるんだったら、やる気を振り絞ったのは後者だけど、世の中では前者をやる気のある人と捉える。

 

そんなことに考え至ってから、「やる気」を磨くより「習慣」を磨いたほうが賢いんじゃないかと思うようになった。

 

だから、私は「やる気スイッチ」じゃなくて「やるかスイッチ」って呼ぶことにしてる。

 

 

ヨガの先生はなんで「お水を飲んでいきましょう」ってう言うんだろう

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ヨガをやっています。

今はチェーン店に通っているし、過去には数度単発のレッスンを受けたこともあり、重数名の方のレッスンを受けてきました。

 

彼女たちに共通して、気になることが……その喋り方。

 

「ぐーっと伸ばしていきましょう」

「まずは、あぐら座になっていきましょう」

「今度は、立っていきましょう」

「落ち着いたら、身体を起こしていきましょう」

「ちょっとここで、水を取っていきましょう」

 

 

「〜していきましょう」の多用です。

 

「伸ばしていきましょう」は納得感のある使い方ですが、「座っていきましょう」は「座りましょう」、「立っていきましょう」は「立ちましょう」、「起こしていきましょう」は「身体を起こしましょう」ではダメなの? と思ってしまうし、「水を取っていきましょう」はなんだかくすぐったい感じさえします。

 

ここまで「〜していきましょう」が多用されるのは、業界用語みたいになっているということだと思うのです。

 

ある環境の中で何かの言い方が流行って定着するのは、その言い方に何かその人たちが大切にしたいニュアンスが含まれているからだと思います。

たとえば、若者言葉(というかネット用語?)の「◯◯たん」。もともとは、名前の終わりに付けて可愛らしさを表していたものを、「ツライ」にあわせて「つらたん」と言ったりします。これは多分、「たん」を付けると印象が柔らかくなって「ツライ」って言いやすくなるからなんじゃないかなと思っています。

軽く「ツライ」を表現したいという、私たちの隠れた需要にヒットしたから広まったのかなと。

 

「〜していきましょう」もこれと同じように、ヨガを極めた方々の何かを象徴しているんじゃないかなと思うんです。

 

ヨガ継続歴1年に満たない未熟者なりに思うヨガの特徴は身体の使い方で、「力まないこと・固まらないこと・止まらないこと」を重要視していることです。

 

手を伸ばすにしても、手を遠くに持っていこうとする力を感じると同時に、手を引き寄せる力を感じましょうとおっしゃいます。

また、どの動きも必ず呼吸をしながらですから、一歩離れたところから見ると1つのポーズで止まっているように見えて、その実身体は少しも止まってはいません。

毎瞬身体のあり方を定め直しているような……ヨガはそういう「変化し続けてる感」を大切にしているように思います。

 

それが「〜していきましょう」という言葉のニュアンスと合致したのかなと。


「立ちましょう」ではなく「立っていきましょう」と言う。

その背景には「立つ」という日常の動作にさえ、なおざりにではなく丁寧に行いたいという気持ちが込められているのかもしれません。

 

「美しさ」にこだわる日本人には「儀式」が必要だった:日本のいちばん長い日

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元旦、『日本のいちばん長い日』を見ました。

終戦の日、1945年の8月15日の「玉音放送」までの丸一日を描いた作品。

一昨年リメイクもされましたが、1967年に公開された白黒映画の方を。

 

日本は他に例を見ない「負け知らずの国」だった

第二次世界大戦は日本が初めて経験する「敗戦」です。

 

当時日本は、外国との戦いに破れたことがない稀有な国でした。

 

「戦後」さえも実感したことのない現代の若者の私は、戦争に対して生理的嫌悪感があります。しかし、当時の日本は国民全体として戦争歓迎の風潮があったそうです。(昨年、平和祈念展示資料館に伺った時、職員の方と語り部の方がおっしゃっていました)

 

戦争をすれば勝って生活が潤う。戦争はそんなものだと、信じるとかではなく当たり前に思っていたそうです

 

美しい負け方は知っていても「賢い負け方」は知らない日本

日本は平和な国でした。日本人同士で戦うことはありましたが、「そんなことをしている間に他所に攻められて滅亡してしまう」というような状況ではありません。

 

だから「潔く死ぬ」という選択が生まれたといえるかもしれません。

一つの共同体の中でなら、「自分が責任を取って死ぬから、他の仲間は見逃してください」で幕を引くことができるからです。「滅亡」という感覚に乏しいために、負け方は美しく洗練されていったのかもしれません。

 

 

その象徴が第二次世界大戦の負け方の下手さでしょう。

第二次世界大戦は、欧米諸国が日本の戦況に立たされたならもっと早くに終戦へ動きはじめていたといわれています。賢い負け方をするからです。

 

「賢い負け方」へシフトするには「儀式」が必要だった

『日本のいちばん長い日』の大きなストーリーは、遅ればせながら「賢い負け方ルート」を歩み始めた首脳陣と、「美しい負け方ルート」のままに終わった青年将校たちのぶつかりです。

 

なぜ、年配者である首脳陣が変化することができ、若者である青年将校が変化することができなかったのか。その違いは年齢や立場・考えの深さ・責任の重さなどにあるのではなく、「自分の変化」を美学化できたかどうかにあるように思います。

 

その違いを生んだのは「天皇陛下のお気持ちを受けた」という体験の有無なのではないかと思います。

 

天皇陛下のお気持ちを受けるという「儀式」

首脳陣は直接に天皇陛下のお気持ちを受けました。

天皇陛下ご自身が「このままでは我が民族は滅亡する」と現状を明言化され、その上で「私にできることならなんでもする。直接足を運ぶこともする」と「負け」の向こうのご自身のネクストアクションまで明確に示されたのです。


これは、キリスト教の「洗礼」にも匹敵する「儀式」だったのではないでしょうか。

 

天皇陛下は、日本を取り巻く空気から誰もが薄々感じつつも直視してこなかったことを明言し、その先にある苦痛を伴いそうな未体験の行動を率先して行うと明示なさったことは、人情を大切にする者にとっては凄まじい体験だったでしょう。

 

 「儀式」から取り残されてしまった青年将校

反対に、青年将校にはそれほどの「儀式」はやってきませんでした。

首脳陣が方針転換を語ったでしょうが、彼らのそれは「天皇陛下のお言葉を受ける」という体験には及びません。「自分を信じた部下が大勢死んだ」「共に戦った仲間が死んだ」そんな思いを抱えて硬直している人たちを「賢い負け方ルート」に移すほどのエネルギーは持ち得なかったでしょう。

 

 

 

1945年版の『日本のいちばん長い日』は、史実を実直に描いているように思いました。登場人物の心境は「心の声」ではなく全て行動で描かれます。特にナレーションが多用される前半はドキュメンタリーを見ているような感覚にもなります。見る人によって、見るタイミングによっていろんな捉え方ができそうです。これに対し2015年版は違う描き方がなされているよう。そちらも見てみよう。