いっぱいいっぱいになると泣いちゃったりするのって花粉症と一緒なのかな
私は花粉症を恐れています。
今、花粉症ではない人も、いつかは花粉症になるかもしれないという。
人それぞれ花粉の入れ物を持っていて、それがいっぱいになると花粉症発症らしい。
その入れ物がペットボトルの蓋くらいの人もいれば、バケツくらい大きい人もいて、ある日突然いっぱいになるらしい。そしたら、それまではどんなに大量の花粉の中にいてもへっちゃらだったのが、少量の花粉にでさえ反応してしまうようになるのだという。
私は、まだ花粉症を発症していません。
20半ばにしてまだということは、私の花粉症入れは最低でも丼くらいの容量はあるのかな。
私は、もう一つ似た仕組みの入れ物を持っているみたいです。
それは、感情の入れ物。
花粉の入れ物と同じように、満たされるまでは大丈夫なくせに、満たされてしまったらちょっとの刺激で溢れてしまう。
ただ、花粉の入れ物とは違って可逆性がある。
花粉の入れ物は一度注がれたら取り出す術がないらしいけど、感情の入れ物は取り出す術がある。
自然に蒸発していくし、入れ物を温めて積極的に蒸発させることもできる。入れ物を思いっきり揺らしたり傾けたりして嵩を減らすこともできる。
ただ、こうした「取り出し方」の熟練具合はさまざま。
嵩が50%くらいの余裕があるうちに加熱して嵩を減らす人もいれば、90%くらいのギリギリで傾けて嵩を減らす人、はたまた100%を超えてから揺さぶって嵩を減らす人もいる。
花粉の入れ物からは個性は見えないけど、感情の入れ物の扱い方からは個性が見えてきます。
髪を洗う。その主人公はシャンプー
髪を洗う。
その行動にお湯とシャンプーが関わることは、現代人なら誰でも類推できる普通のことです。
「シャンプーをする」って言い替えても伝わるくらい普通のこと。
でも、それを普通じゃないって捉えてみたくなりました。
だって、シャンプーなるものが一般に普及したのってたった50年前のお話。
それ以前に比べ私たちは清潔になりました。きれいになりました。
生活から匂いはなくなり、土埃を廃し、虫や菌から遠ざかりました。
でも、それって健康?
きれいと美しいは違う。
渡辺和子さんは、『面倒だから、しよう』で
「きれい」は、お金を必要とします。「美しさ」に必要なのは、心の輝きなのです。
とおっしゃいました。
私は、「きれい」より「美しい」が欲しい。
髪を洗うとき、髪を濡らす→シャンプーを泡立てる→泡を髪に付け揉み込む→髪の全体の泡立ちを確かめる→手の平に十分泡を感じたら泡を流す→泡を流しきったらシャンプー終わり。この流れです。
主役は常に泡。
私は、髪のことを考えているようで髪のことを見ていません。
髪は放って常に泡の状態を見ている。
これって本質を忘れてる。
それって美しくない。
「薬も過ぎれば毒となる」
シャンプーの洗い残しは肌荒れの原因となる。
健康が害される。
髪を洗うことの主役を髪や肌に返してあげたい。
そんなことを思う夜中のシャンプーでした。
冬を何だと思ってるの?冬って寒くて当たり前だよ
日露戦争当時の日本人兵士たちは、今では考えられないほどの軽装で戦い抜いたそうです。
また今は立派でエアコンまで装備されている住宅に住む私たちですが、こんなに室温をコントロールできるようになったのはたった半世紀前のことです。
エアコン普及率が5、6割に達したのは40年前のことなのです。
そしてなんとなく、私の想像ではエアコンのない時代の人たちが毎日「寒い」「寒い」と口にしていたようには思えません。
人の脳は1日に数千もの考え事をしている
その中で、重要度の高そうなものだけが意識の表層に登る
そんな話を聞いたことがあります。
きっと、「寒い」と気付いたとしても、それに為す術がなければ「受容する」方向にいき、頻繁に意識の表層に登場することはないのではないでしょうか。
しかし、今はたくさんの選択肢があります。
寒い。
だから、今日は家から出るのを辞めておこうか。
だから、エアコンで室温が整えられた家にずっといようか。
だから、カイロを持って出ようか。
だから、ヒートテックを着ようか。
だから、自販機であったかいものを買おうか。
選択肢が多くあるから「寒い」ということを、判断すべきものとして意識の表層に上げてしまう。
それが、もう「過敏」の域だと思うのです。
私たちは、確実に50年前の方たちより暖かで快適な生活をしています。
それなのに、「寒い」って毎日何度も嫌がることは、もしかしたら健康的なことではないのかもしれない。
「冬が寒い」ってことを忘れて、過ごしやすい快適な気候を思い描いているから、毎日「寒い」って思うのかもしれない。
そう思って、理想像を「冬は寒いのが普通」って置き直したら、冬は寒くなくなりました。
自室でエアコンを付けることも少なくなりました。
私には、ヒートテックもあったかいコートもあるもの。それで十分。
恋バナ「憧れは理解から最も遠い感情」
友達:
私さ、尊敬できる人じゃないとダメなんだよね
わたし:
分かる! 「憧れって理解から最も遠い感情」っていうじゃん!
尊敬ってそういうことなんだよね!
友達:
え、それ知らないー! でも、分かる! 遠いから付き合えるんだよね
わたし:
でしょ!? 理解しきれないって分かってるからこそ、相手とうまく距離を取りやすくなるんだよね!
先日の友達との恋バナ。
ーー「尊敬できる人が好き」
好きなタイプを聞かれたときの常套句。
でも、なぜ尊敬できる人が好きなのかは人によって違うし、尊敬できる人は具体的にどんな人なのかも人によって違うとってもあやふやな言葉。
なのに、その友達と「なぜ尊敬できる人が好きなのか」が一致して嬉しかった。
相手のことを「理解できている」ということを前提にしていると、相手との少しの差に悲しくなったり苦しくなったりする。
でも、相手のことを「理解できないところがある人」と思っていると、相手との差も楽しめる。
「憧れは理解から最も遠い感情」。
だからこそ、その人との関係をうまく続けるスパイスになる。
そんなことを友達と語って分かれた帰り道。
「そいえば、友達知らないって言ってたけど、憧れは理解から最も遠い感情って、私どこで知った言葉なんだろう……」
ぐぐってみたら、『BLEACH(ブリーチ)』でした。。。
意識高い系と意識高いの境目ってどこにあるの?
「意識高い」って言葉は、褒め言葉にもけなし言葉にもなる。
言葉の意味がポジティブからネガティブへ広がったり、狭い意味から広い意味に広がったりするのは、言語の性みたいなもの。
「ありがとう」だって感謝を伝えることもあれば嫌味を伝えることがあるし、「いつもありがとう」なんて挨拶代わりに使われることもある。
そのときの話の流れとか、そのときの空気とか、表情とか、声の感じとか、そういったものによって、言葉の伝える意味は変化する。
ただ、「意識高い」は「ありがとう」と比べれば新しい言葉だから、その言葉が伝える意味のバリエーションは狭い。
褒め言葉かけなし言葉に大別できる。つまり、「あなたのことほんとうに凄いと思う」か「凄そうなことやってるけど、別に共感できない」のどちらか。
この後者は裏では「意識高い系」って呼ばれるものだけど、表ではちょっとずつ相手の気持ちいい言葉に言い換える日本人の性によって、「意識高い系」は「意識高い」に変身する。
「意識高い」と「意識高い系」の境目
そんな、「意識高い」と「意識高い系」の境目が気になっている。
他者のエピソードを聞いたり、FBを見たりした時に、「意識高い!」って思うときと「意識高い系だ―」って思うときがあるのです。
たとえば、「毎日名言を紹介する」っていうこと。
括ってしまえばそう言える行動も、TPOによって私の捉え方が変わる。
ネットや本から借りてきた名言をそのまま載せるだけなら、それは「意識高い系」。
今日の名言:「継続は力なり」
でも、名言にその人なりの言葉がくっついていたら、それは「意識高い」に近づく。
「継続は力なり」っていう言葉の重みを今になって感じる。どんなにいい発想があったとしてもそれを実行して形にしないと誰にも気づいてもらえない。そして、大きなことをしたいときほど形になるまで時間が掛かる。その途中で折れてしまう可能性は桁外れに大きくなる。でも、形にするまで頑張れないと、他者から見たら何もやってないのと一緒。今年、結果にこだわりたい私は「継続は力なり」を意識しようと思う。
そして、その言葉が多くの人の共感を呼ぶのなら、それは完全に「意識高い系」から抜けて、「意識高い」をも抜いて、「凄い人」ってもっとシンプルに表現されるようになる。
たとえば、「自分磨きにお金を掛ける」こと。
これも状況によりさまざまだと思う。
お金を掛ける対象を次から次にファッションのように変えるなら「意識高い系」だと思う。その対象がエステでも健康食品でも習い事でも。
反対に、継続して取り組んでいたり、行っていることに一貫性があるように見えると「意識高い」に近づく。
さらに、それが仕事につながったり社会に貢献できることだったりして、投資した分、何かが返ってくる様子だと、それはもっと「意識高い」に近づく。ただ、その「何か」は、楽しさとか充実感とか自分しか測定できないものではなくて、客観的に測定できるものであった方が、理解したり共感したりしやすい。
こうして、ちょっぴりザクッと考えてみただけだけど、「意識高い」か「意識高い系」かの境目は行動というより「取り組み方」の方にあるみたい。そして、共感や憧れといったポジティブな感情が生まれたときに「意識高い」って思えるみたい。
『ゴジラ』も『シン・ゴジラ』も「万人の正義」が存在しないって叫んでるみたい
昨年は、私にしてはいろいろと映画を見た1年でしたが、見たその時もその後も長く楽しんだものと言う意味では1番は『シン・ゴジラ』でした。
振り返れば『シン・ゴジラ』に関連してブログも7記事書いています。
(1. シン・ゴジラは災害体験/2. 伊福部昭の音楽の切なさ/3. 伊福部昭と鷺巣詩郎の音楽の対比/4. シン・ゴジラは明確な「軸」に沿って作られている/5. シン・ゴジラのリアルさは脳に宿る/6. シン・ゴジラの視聴は理解モード/7. 名台詞「この国はスクラップアンドビルドでのし上がってきた」について)
ネット上の『シン・ゴジラ』関連記事も多く読みました。その中に、初代『ゴジラ』との類似性を指摘する記事が多くあり、気になっていた『ゴジラ』をようやく視聴しました。
まず一言で感想を述べるなら……
庵野秀明監督映画『シン・ゴジラ』と同様に本多猪四郎監督映画『ゴジラ』もまた「体験」でした。
というより、「体験映画である」という点において、『シン・ゴジラ』は初代『ゴジラ』の系譜を引き継いでいるんだなということが分かりました。
ゴジラは「3.11」vsゴジラは「第2次世界大戦」
『シン・ゴジラ』は、多くの日本と関係ある人にとって印象深く、また身近に感じる出来事だった「3.11」の追体験でした。
そして『ゴジラは』局所的には「東京大空襲」、広い意味で取ると「戦争」の追体験です。
「戦争」は、原子爆弾や尾を引く放射能の影響、父が出兵して戦士し残された母子の心境、疎開、避難など小さな事象を内包したものです。当時を知らない私でも、こういったようなことを読み取れますが、公開当時の方々はもっと多くのことに、もっと細かいことに反応したのではないでしょうか。境遇に共感したり、役者の台詞が自分の言いたいことを代弁してくれているように感じたり。
こうして何の追体験かが違うから、ゴジラの出現の表現も違う。
『シン・ゴジラ』では、ゴジラは「津波」。だから周囲を巻き込むようにして這うように濁流として現れた。街を破壊していくけれど、それは上から打ち砕くというよりは、横から押し崩す動作による。
一方『ゴジラ』では、ゴジラは「爆撃機」。だからしっかりと歩いてやってきてそこらを火の海にする。『シン・ゴジラ』のゴジラがかなり神格化された神秘性を持っているのに対し、『ゴジラ』のゴジラは神格化されはするもののどこか身近さを持って描かれる。それはゴジラの破壊が「自然災害」ではなく「人災」の暗喩であるからだろうか。
視聴後はやっぱり割り切れない気持ちに
以下の記事で、初代『ゴジラ』の音楽を担当した伊福部昭の「切なさ」に触れましたが、やはりゴジラは「切なさ」を内包したお話でした。
既に方方で語られていることではありますが、ゴジラは悪者がいない映画です。一応敵はゴジラだし、ゴジラは生活を破壊し人を殺しもします。でも、悪者としては描かれません。
『ゴジラ』でも『シン・ゴジラ』でも登場人物が「殺さなくても……」と言ったりします。ゴジラを悪者にしないことで、単なる勧善懲悪のヒーロー映画にしないような、世の中には良い悪いで割り切れないことで戦わなきゃいけないこともあるというような、製作者の叫びのようなものが聞こえてくる気がします。
世の中や人の生き方に、明確な「正義の道」があれば争いももう少し分かりやすい形になるのかもしれないけど、「正義」は個人や一定の共同体の心の中にしかない。人と人や共同体と共同体が交わるようになったら、それぞれの「正義」が異なるために、悪者はいないのに戦わないといけなくなる。
そんな、世の中の難しさを『ゴジラ』は訴えようとしているのかなと思いました。
「やる気スイッチ」はなんだか嫌で「やるかスイッチ」って呼ぶようにした
あれは2日前。
前日遅かったにも関わらずちゃんと早起きしてスタジオで歌の練習をして、そのあと1時間運動して、いつものとおりに仕事をした日。
ここまでは充実してた。
ダメなのはこの後。
帰ったら何も手につかなくてアニメをぼーっと見た。
「今日頑張ったし、疲れてるから仕方ないね」
って言い訳をして。
それが「やるかスイッチ」を重くしてしまったきっかけだと今になって思う。
同じアニメを見るにしても、楽しんで見る場合と、ボーッと流すようにして見る場合が私にはある。
2日前は確実に後者だった。
大好きなアニメを見てるんだけど、なんというかあんまり感動しなくて、内容もあまり覚えていない。ほんとうにただ、流すようにしていただけ。その状態で眠さと戦いながら3話くらいアニメを見続けた。今思うと不毛な戦い。不毛な時間の過ごし方。
1回、暴飲暴食するとその後に食べぐせが残ってしまうように、これで「やるかスイッチ」を押さない癖がついてしまったのか、昨日も今日も、予定が無い時間、ダラダラ。
やるべきこともやりたいこともたくさんあるけど、どうも身体が重くて何もできず。
ブログ書くにも書きたいことが整わなくて、結局、そうなった原因について振り返る記事を書き始めた。
この記事読みたい人なんているのかなと思うけど、ゆうてこれはブログなのでいいことにする。
そうだ、「やるかスイッチ」について。
これが「やる気スイッチ」でも「やるぞスイッチ」でもなく「やるかスイッチ」なのには理由がある。
私は、最近「気力」とか「頑張る」とかってことを自分に期待しなくなった。
「こいつやる気はあるな」って思われる人と「こいつやる気もないのかよ」って思われる人がいるけど、彼らの違いって「気持ちの強さ」ではなくて、行動を起こしたり続けたりする習慣がどれだけあるかだと思うようになったから。
結局、人は他人の気持は分からない。思考も読み取れない。その人の行動から推察しているだけ。そして、その行動のほとんどは無意識の習慣から起きている。
物事を続ける習慣を持つ人はそんなに無茶をしなくても「諦めない人=やる気のある人」って解釈されるんだろうし、物事をすぐ辞めてしまう習慣がある人はその人なりに無茶して普段よりすごく頑張っても「途中で諦める人=やる気のない人」って見られちゃう。
もしそれぞれの思考を読み取れるんだったら、やる気を振り絞ったのは後者だけど、世の中では前者をやる気のある人と捉える。
そんなことに考え至ってから、「やる気」を磨くより「習慣」を磨いたほうが賢いんじゃないかと思うようになった。
だから、私は「やる気スイッチ」じゃなくて「やるかスイッチ」って呼ぶことにしてる。